傾いた夕日が、街を見知らぬ場所のように染めている。 オレンジがあちこちを覆い包み、まるで異界のようだと巻島は周囲を見渡した。 電柱にある住所表示は、知っている駅名の近くのもの。 ただ記憶に残る風景と各所が違い、随分と高層マンションが増え、アーケードが続く昔ながらの商店街といったものは姿を消している。 訪れていなかったのは、半年…いや1年経っているのかもしれない。 それでもこんな急激に、景色というのは変わるものだろうか。 だが駅前に作られていた小さな人工的な泉と、その横の子供の銅像は、自分が進む道を選ぶのに、よく目印にしていたもので、やはりここは自分の知る駅なのだと教えてくれていた。 ――さて、どこへ行こうか そう思って足を進めようとしたが、動かなかった。 そもそも、何故自分はここにいるのか。 どこへ行こうとしていたのか。 どうしても思い出せず、途方にくれた思いで、周囲を見渡す。 少し伸びた影が、本体より先に視線の先にある壁に映る。 伸びた影を追いかけるよう、地下へ繋がるスロープから男の姿が見えた。 「……」 声をかけようか、少し迷う。 かけてどうなるというのだろうか、ここに自分は何故いるのかなんて、そんな質問されたって相手が困るだけだろう。 やはりやめようと、あらためて男を見れば、相手もこちらを見詰め、何事かを小さく呟いていた。 まるで幽霊でも見ているように、その目は見開かれ、目が合ったのは気のせいではないと伝えてきている。 スローモーションになった映画を見てるみたいだと、他人事のように思う。 夕方で車も少ないのも幸い、相手は左右の確認もせず車道をまっすぐに横断し、こちらへ駆け寄ってきた。 通り過ぎていった猛スピードの車が、飛び出してきた男に猛烈な抗議のクラクションを鳴らし、通り過ぎていった。 「……ちゃん………っ……!!…」 近寄ってくるその迫力と、鼓膜に響くような声で名前を呼ばれ、動くことができない。 …アイツみたいに静かで…あっとういう間に距離詰めて来んなァと、どこか他人事のように巻島はただ、見ていた。 男が咥えていたタバコは、転がって水溜りに転がり落ちて、ジュッと音をたてる。 (…よく似てると思ったけど、やっぱ別人っショ) だってこれがアイツなら、スポーツマンたるものがタバコを吸うなど何を考えているのだね!?と言うに決まってる。 まして吸っていたタバコを、道路にそのままにしておくなんて、真似をするはずがない。 あっという間に距離を詰めてきた男は、自分より頭半分ほど、身長が高かった。 別人だ、別人だ、別人だ、だって何もかもが違うんだから。 ……それでも、やけに似ているのが、巻島の混乱に拍車をかけた。 切れ長の瞳に、若武者みたいに整った眉、記憶の中の少し童顔めいていた輪郭は締まり、涼やかな印象を放っている。 男は長めの前髪を一部下ろし、それ以外の頭頂部分までの髪を、後ろでまとめたハーフアップにしていた。 黒いシャツの襟は深めに開けていて、金の細い鎖が鎖骨の上で光っている。 それだけで、随分印象が違っているのもあるが、何より、トレードマークだったカチューシャがない。 整った顔立ちが、シンプルに纏められた衣装でいっそう際立ち、男前度は随分上がったように見えるがチャラさがそれ以上に倍増しだ。 ――街で普通にすれ違ったら、何気なく避けたくなるタイプっショ。 どこか麻痺した頭で、近づいてくる男をぼんやり眺めていたら、そのまま強い力で強引に腕を引かれた。 反射的に離れようとすれば、有無を言わさず抱き寄せられる。 ぎゅっと、離さないというような我武者羅な力とは裏腹に、細く掠れるような声で 「……巻、ちゃん……?……」と呟いた。 震えた質問とも独り言とも取れる台詞に、巻島の警戒は消える。 やはり、こいつは自分の知る男なのだろうか。 だとしたら何故、こんな急に背が伸びているのだろう。 抱きしめる力が強すぎて、少し苦しいと軽く腕を叩いてみるが、その力は弱まることはなかった。 仕方がないと、自分の知る名前を呼びかけてみる。 「…尽八っショ?」 びくりと小さく体を震わせ、必死に抱きついていた東堂の拘束が少し弛んだ。 ** 驚いたことに、東堂が出てきた地下から続く高層マンションのしかも上層部が、今の東堂の住まいだと言う。 地下には自家用車を止めていると聞いて、更に驚く。 東堂の実家は歴史も由緒もある老舗旅館だが、息子にそこまで自由に金を使わせるほどの、裕福さはなかったはずだ。 しかも旅館は女将として、東堂の姉が継ぐことになっていると、聞いたことがある。 …生前贈与にしたって、明らかにおかしいだろう。 先ほどからの疑問の嵐に、東堂は一つ一つ丁寧に答え、自室へ巻島を伴った。 「ようこそ、巻ちゃん……うれしいよ」 「お…お邪魔します…っショ」 とりあえずと案内されたリビングで、巻島はソファに腰を落とす。 美しく整った、けれど生活観のまるでない部屋。 まるでモデルルームや、インテリア特集の雑誌のフォトグラフの1ページみたいに、綺麗でそして何もない。 …そう、何もないのだ。 東堂の愛車であったはずのベルギーブランドRIDLEYも、競い合って奪われたヒルクライムの優勝盾も、メンテナンス道具すら。 一度薄れた疑念が、またよみがえる。 この目の前にいる男は、自分のよく知る男の親戚か何かではないだろうか。 それならば、つじつまは合うのだ。 自分の身長を越していることも、部屋にロードバイクの匂いが欠片もないことも、服装がまるで雑誌やショップのコーディネートそのままのように、洒落たものであることも。 白くゆったりしたソファに座らされた、巻島の前に跪いて東堂がそっと手をとり、まるで祈るみたいに両手で包む。 その真摯な様子は、からかっているようには到底見えず、巻島はただ戸惑うしかなかった。 「えっと…東堂……尽八の……」 言いよどんだのは、彼に兄がいないと知っていたからだ。 弟は自分の知らぬうちに生まれていたという可能性もあるだろうが、それにしては年齢が合わない。 「…従兄弟とか、親戚……の方…デスカ」 慣れた口癖が出ぬよう、慌てたせいでカタコトになった巻島の台詞に、ようやく東堂は顔を上げほほ笑みを見せた。 「巻ちゃん……巻ちゃんは、いつの巻ちゃん?」 「へ?」 間が抜けた返しをしたとは、わかっているが、いつの自分なんて問いかけをされたら、誰だって同じような行動を返すに違いない。 「いつ…って…?」 「その髪の長さは高3だよな …インハイはもう終わったか」 東堂の指すインハイは、一生…二人での競い合いには負けたけれど、それでも総合では総北が勝ち、一生忘れないだろう記憶だ。 こくりと頷けば、東堂の目はどこか懐かしそうに細められた。 「…もうオレに、渡英は告げた?」 何を言われているのか解らぬまま、やり取りは続く。 「あの…えっと…」 「もう気付いてるんだろ、巻ちゃん オレはお前の知ってる東堂尽八だ 従兄弟でも親戚でもないよ」 自分の懸念を言い当てられ、莫迦なことを考えていたと笑われるかと思ったが、東堂は優しい視線のままだ。 その包むような空気がどうにも面映く、ぶっきらぼうに 「でも…お前、オレの知ってる東堂と …ちょっと……色々違うっショ」 とだけ伝える。 「そうだろうな、お前の知ってるオレは10年前のオレだ」 「…ショ…」 我ながら、便利な口癖だと思う。 困惑も肯定も否定も、驚愕だっていつも自分はこの一言で済ませているのだ。 そして目の前の男は、そんな自分の短い一言から、色んな思いを汲み取ってくれていた。 「さすがリアリストを自称するだけあるな、…もっと叫んだりするかと思っていたが」 「…いやこれ、全然リアルじゃねえっショ…むしろ夢って言われた方がリアリティあるっショ」 「だろうな」 薄く微笑んだまま東堂は、今の現状を伝えてくれる。 目の前にいる東堂尽八は、現在27歳であること。 今いる場所は東堂が、自分で稼いだ金で買ったこと。 それまでのやり取りも何もかも驚きではあったが、一番の衝撃は、今の東堂がロードバイクに乗っていないことだった。 「…なん…で……」 「何もかも、むなしくなったんだよ お前に切り捨てられて」 苦笑するように、それでもほんの僅か冷たい光を宿した東堂の視線に射竦められ、巻島の体が強張った。 その様子をみた東堂が、フッと鼻先で自嘲するみたいに笑う。 「ああ記憶にあるのか、巻ちゃん…なら今のお前は出発直前の、オレの知る巻ちゃんか」 ぼんやりと霞みがかった東堂とのやり取りが、今の会話で少しずつよみがえる。 そうだ、どうして…ほんの僅かな時間しか経っていないのに忘れていたんだろう。 ――オレは、東堂と…… 東堂に告白されて、それをありえないと切り捨て、自分の思いは封印したのだ。 東堂が好きだった、でもそれは自分の一方的なだけの感情だったはずなのに。 何気なく肩を組んできたり、思わせぶりな物言いをされたり、しつこいぐらいに連絡を取られたり…。 ウザったいと思いながらも、その一つ一つどれもに鼓動は跳ね上がり、それを表面に出さないようにどれだけ苦労したかなんて、絶対気付かせないつもりだった。 なのに。 あと数歩で出国ゲートという所で、手首をつかまれバランスを崩しかけたら、息を切った東堂がそこにいた。 泣きそうに……いや、東堂は泣いていたのかもしれない。 自分の中の混乱と、その後の苦しさがごちゃごちゃになって、いまだ整理しきれていない。 かっこよさだとか、人目だとかをまったく意識せぬ様子で東堂は、ずっと好きだったと言ってくれた。 離れていたって、思いは変わらないとまで、言ってくれた。 自分もつられて泣いてしまいそうなほど嬉しかったけれど、それは叶わない夢だと、巻島はもう諦めていたのだ。 将来有望な、どんな相手だって得られるだろう東堂への思いは、封印してここにいるのだから……答えられない。 自分だけしか幸せになれない、儚い未来に東堂を巻き込むなんて、しちゃいけないことだ。 だから心で涙を流しながら、薄笑いを作った。 「ありがとうな…東堂」 瞬時顔を輝かせた東堂の、眩しい表情に胸の痛みはいっそう強まる。 「でも…オレはお前を友達としか思ってねえっショ」 なけなしの力で、袖を掴んでいた指を一本一本無理やり外す。 呆然と立ち尽くすその姿が、絶対に追ってこれなくなる場所まで涙は耐えた。 出国審査を泣きながら通るオレを、周囲はどう見ていただろうかと今更ながらに思う。 それでも次に会うときには、友人の顔をして東堂と会えると思っていたのに…目の前にいる男は。 「絶対に両思いだなんて馬鹿げた確信で、無様な行動をとったあの頃のオレをどう思った?」 何事もなかったように続ける東堂を、呆然と見返す。 東堂の言うようなつもりで、無理だと言ったのではない。 だがそれは確かに、自分の一方的な価値観だったかもしれない。 お前には自分なんかより、ずっとふさわしい相手がいると、一言付け足せばよかったのだろうか。 「オレの一生にすら感じていた思いは、単なる思い込みでしかなかった… 巻ちゃんにそう告げられ、オレは何もかもどうでもよくなってしまったんだ」 それでも基本的な能力値が高い東堂は、何事も人並み以上にこなせてきたのだという。 大学に受かり、適当なサークルに入り、余った時間を潰すのも兼ねてバイトをする。 接客能力の高い東堂は、外見で多くの客を寄せ付けることもあって、そこそこ以上の時給を貰い、学生ながらに貯金額は膨らんでいた。 また、自転車競技用にと幼い頃から家を手伝って得たお小遣いやお年玉と言った類のお金の使いみちも、もうない。 「だからヤケの気持ちも手伝って、全額FXに投資してみたら大当たりをしてね」 借金になるような真似はしないつもりだったが、何をしてもつまらなく思える毎日に、借金という重荷ができればいっそ緊張感は得られるかもしれない。 そう思い全額で投資した「かなりギャンブル性の高い通貨」とよばれるトルコリラの売買を続けたら、大儲けをしたのだと東堂は言った。 このマンションを購入しても、一生暮らすに困らないだけの金というのだから、8桁を上回っているのだろう。 9桁に届いているならば、下手に働くより消費していくだけの方が、確実かもしれない。 咄嗟に頭の中で、指折り計算をしていると、東堂の胸元から電子音が鳴った。 着信音を確認した東堂は、少し眉を顰めすぐにそれを切ってしまった。 「お、おい… 相手、なんか用事あったっショ…オレはいいから…」 自分のせいで、電話をかけてきた相手を東堂が無碍に扱うのであれば、心苦しい。 しばし画面を見ていた東堂は、「そうだな」と短く答え、履歴ボタンを押したようだ。 電話相手の声はさすがに聞こえないが、東堂は目前のまま移動する様子はない。 聞いていてもいいものだろうかと、居心地悪げにもぞもぞと動く巻島を、軽く押し留め東堂は電話相手と会話を続けた。 「……ああ、すまない いや明日も明後日も無理だ」 『………!』 内容までは聞き取れないが、相手の憤慨狼狽してるであろう様子は察せられる。 なにごとかのお誘いを、そっけなく…聞きようによっては、冷淡だとも取れる振る舞いで東堂は断っていた。 やはり自分が聞いちゃいけない、と立ち上がりかけた巻島に、耳を疑うような台詞が聞こえてきた。 「もともと君が友達でもいいからと言ってきたのだろう オレは君に興味を持てんまま、今後も変わりそうにない」 「おま……それは、あんまりっショ……」 思わず相手の気持ちになって、擁護しかけた巻島だが、自分にそんな資格はない。 携帯を握る東堂に、無言で咎める目つきをされ、俯いてまたソファへと腰を落とした。 「ああ、あと数件 用事をすませるからすまんが巻ちゃん待っていてくれ」 正直この場には、いたくなかったが行く先もあるわけではない。 巻島が困った様子を見せながらも、小さく頷いたのを満足げに、東堂は次の電話を掛けはじめた。 次の電話も、同じような内容だった。 数日後の約束をキャンセルしたい、もう会わない。 最後には「もともと遊びでよければと言ったはずだ」というやり取りが、目前で3件も続けば、巻島は呆然とするしかなかった。 「東堂……なに、やって…」 年上のはずの東堂に臆する気持ちは残るが、こんな人を踏みにじるような台詞を連発されれば、巻島すら身を切られる思いだ。 そして鈍いはずの自分と違い、客商売という家に育ち、副キャプテンという立場で後輩たちを纏めていた東堂が、それを理解していないはずはない。 最後らしい電話を切って、どうせどうでもいい相手しか入っていない携帯だと、東堂は燃えないごみ専用らしい箱に、投げ入れた。 「ずっとオレは神を恨んでいたよ」 笑わぬ目で東堂が、口端だけを上げた。 「なんでも適当にこなせる才能や、人に好かれる容姿をくれながら、一番願って欲しかったものだけをくれなかった…オレの人生から奪ってしまった」 東堂の言動を自惚れだ、しょってると揶揄するには、実績がありすぎた。 この豪華な住まいだって、通常ならば20代でそう簡単に手に入るものではない。 …なのに、こうも歪んでしまったのは自分のせいだろうか。 無言でいる巻島の前で、東堂は再び屈みこんで、その両腕で包み込んだ。 耳たぶにそっと、唇が近づく気配がする。 「だけど…戻ってきてくれたんだな巻ちゃん… もう離さんよ」 柔らかく優しいささやきなのに、何故か巻島の背に冷たいものが伝った。 吹きかかる息がくすぐったくて、少し身じろぎをすれば抱きしめられる力は一層強くなる。 「…と、うどぉ……」 「神も間違えに気がついたんだろうな …だから返してくれた… 巻ちゃんだって」 オレだって何だよと、問い返すことはできなかった。 大きな掌が後頭部を包み、気付いた時には、東堂の唇が自分のそれに重ねられていた。 キスをされているのだと、認識した巻島が咄嗟に逃れようとすれば、逃がさないとばかりに尚強く唇を求められた。 息苦しくて、ほんの少し開いた隙間からぬめりとした舌が入り込む。 ぎこちなさも初々しさもない、慣れた動作。 「く…ふっ…ぁ………」 舌を絡めとられ交差するように舐められたかと思えば、くすぐるように舌先が敏感になっている粘膜に触れる。 呼吸もままならず、涙目になって東堂の胸元を拳で叩いても、何の意にも返されなかった。 「もう他はいらない 巻ちゃんの代わりに心を埋めてくれる何かなんて、存在しないのだから」 「東堂、東堂……オレ…は……っ…」 「巻ちゃんだってオレに心残りがあって、こうやってオレの元にきてくれたのだろう……いや、答えなくていい」 たとえどう答えようと、離すつもりはないのだからと言い聞かせるように、また口接ける。 反射的に拒もうとすれば、力尽くで押し切られ、巻島が慣れぬ愛撫で体のこわばりが弛緩するまで、口腔をあちこちと苛んでくる。 うっすら涙を浮かべた巻島が息もたえだえに、ソファに倒れこむようにもたれ、ようやく東堂の口接けは終わった。 正面から横へと移動した東堂は、そっと巻島をかかえ己の両脚の間に座らせると、背後から抱きしめ座る。 「何をしているかと、聞いてきたな巻ちゃん…?」 巻島にふられたので、声をかけてくる適当な女性とどうでもいいつきあいをしていた、それを鬱陶しいから切っただけだと平坦な声で東堂は言う。 先ほど捨てた携帯は、そんな相手のみの連絡用だから何も不自由はない、ただ彼女たちと付き合うほど、巻ちゃんへの愛おしさが自覚されるばかりだったから、 そのための礎だったのかもしれんなと笑いを含んだ声で東堂は続けた。 熱情と歪んだ執着と、これ以上はない愛慕。 同時にそれらをぶつけられ、巻島は茫然自失するしかなかった。 ** 東堂と暮らすようになって、衣食住に困ることない生活は保障された。 その反面、少し窮屈な面もあり、特に厳命されたのは、得ていい情報の選択だった。 万が一、18歳の巻島が本来の時間に帰ることになれば、未来の出来事になる大きなニュースや事故を知っていて選択が変わり、未来が改変されるかもしれない。 そう言われ、東堂が許可しないテレビ番組を見るのは、不許可とされた。 バラエティーや旅番組などは問題はないが、クイズ番組などでも時事問題が絡むため、不許可。 …結局許されたのは、一度録画し、東堂が内容を確認した番組のみとなってしまっている。 もともと巻島はテレビなどあまり見るほうではないし、それは問題なしなのだが、雑誌なども東堂検閲があるのは問題だった。 ニュースや新作雑貨など、文字記事を切り落とされ、自分の手元に廻ってくる時にはスカスカになってしまっているのは少々困る。 思春期にまだ若干陰を落としている年代としては、自分がみたいグラビアのみを残されているのは、ありがたいと言うより気恥ずかしい。 だがもっとも困ったのは、監禁…いや鎖や縄の類は使われていないのだから軟禁というべきか、ともあれ外出が不可能に近い生活だった。 万が一、『この時代の自分』と出会ってしまえば「同一空間上に2つ以上の物体は、同時に存在できない」という物理法則によって片方がその場で消滅してしまう…というのが東堂の言う理由だ。 世の中で言う、己のドッペルゲンガーを見た者が死んでしまうというのは、その現象ではないかと言われてしまえば、イレギュラーな現実だけに、否定も難しい。 「…それから、巻ちゃんが会いたい人たちがいるかもしれんが、それもやめておいた方がいい」 「…なんでっショ?」 「幾ら口が堅い、信用のおける人物でも……いやそういう真正直な人間に、ウソをつかせてしまう訳にはいかんだろう?」 巻島がもっとも会いたいであろう小野田などは、他人に言うなと命じられればそれを懸命に守ろうとするだろう。 ただそのせいで言動に不自然さが生まれ、聡い周囲には色々疑われてしまう。 タイムトラベラーも100年200年という単位であれば、御伽噺だが、生き証人が色々いる状況では、面白半分にどんな情報がばら撒かれてしまうかわからない。 巻島もいた当時ですら、一般人にもネットという世界の発展で、情報を拡散するのは容易になっていた。 約10年経過しているこの世界では、尚更なのかもしれない。 「オレは巻ちゃんにフラれてから、総北の奴らと縁はまったくないからな」 東堂は大丈夫なのか、他人に対してウソはつけるのかという言動にそう答え、まんがいち巻島がらみの話題が他人に出されても 「巻ちゃんの為なら、顔色変えず知らないと言えるよ」 と断言をした。 同じような理由でネットも制限されている。 結局巻島が自由に見れるのは、映画やアニメなどのDVD・ブルーレイ、東堂が内容を確認した動物ものテレビや教科書レベルで遡れる時代のドキュメンタリーや時代ドラマなどに限定された。 雑誌に関しては時事問題に関わる要素が多いのでほとんどが中止されている。 しかし書籍に関しては、自分の存在していた時代より前に発行されていれば、問題はなかろうと東堂が許可をしたので、巻島は自然本を読むことが増えていた。 「…暇っショ…」 巻島はそれほど活動的ではないが、さすがに外出不可能、室内での活動も制限されれば、窮屈に感じる。 『巻ちゃんの好きにするといい』という東堂は、ハイレベルニートというべきか、高等遊民というべきか常に一緒なのだから尚更だ。 何もすることがないといえば、ひたすらくっついて来られるのも正直、たまにうざったい。 体を動かしたいと告げれば、即座にジム顔負けの健康器具が購入されそうで、さすがにこれ以上負担になるのは避けたかった。 そこで巻島が始めたのは、過去に戻れる方法の探索だった。 考えてみれば真っ先に始めるべきことは、それだった。 幸いにして迷って即座に今の東堂と出会い、しかも衣食住保障周囲とも隔離されているという安全な生活を得てしまっているので、改めて礼を言うのを失念していたと 巻島が東堂に頭を下げれば、東堂は苦笑するように唇を歪めた。 それでも、巻島の気が済むのならと量子学から他次元論、タイムトラベラーの話といった本を色々と取り寄せ、購入が難しいものであれば、図書館へと探しにいく。 ネットで何でも購入できる時代、東堂の数少ない外出は、ほぼそんな理由だ。 歌川国芳のような都市伝説レベルは、息抜きに最適だったが、そういったネタ的要素の高い本は、一時流行してすぐ消えるので、通販などで購入しにくい本の類だ。 待機中はまだ封を切っていなかったブルーレイを見ているから、その類の本を読みたいと東堂に頼めば、少し遠方の古書店を見て来ようと東堂は承諾をしてくれた。 これは巻島なりの、気遣いだ。 自分につきあって、まったく外出しなくなった東堂に少しでも、外の息を吸わせたいと思う。 ただ飯食いの居候というだけで、巻島としても心苦しいのだが、それは言っても伝わらないだろう。 東堂はただ、そこに居てくれているだけでいい、オレの前からいきなり消えてしまわないでくれれば、それだけで充分だと、巻島を甘やかす。 今日の外出だって、巻島に背を押されたふりをしながら、通販だとどうしても食感などが変わってしまうお取り寄せ品などを、持ち帰りで購入してきてくれるつもりだろう。 「…あのヨ、東堂……フラ……いやそのオレがフッた…から会いにくいってのもあるだろうけど…」 『この時代の自分』と会おうとしないのかと、巻島がしどろもどろに聞けば どこか辛そうに東堂は 「そうだな……会いたいな、オレと同い年の巻ちゃんにも…」と遠くを見る。 その表情は痛々しさがあって、無責任な自分の行動が東堂を今も傷つけているのだと、それ以上は言えなくなった。 『27のオレも、絶対にお前に会いたいって思ってるショ』なんて、無責任に言えやしない。 少しは、東堂の役に立ちたい。 一方的な自己満足で、なりふり構わず告白してくれた相手に、自分はひどい態度をとった。 なのに東堂は、こんな自分と再会しても(多少鬱陶しくはあるが)温かく受け入れ、甘やかしてくれている。 それを受け入れ、東堂が「現在存在している自分」と出会えなくなってしまっているのは、心苦しいと思う。 …この時代の自分は、東堂と別れたままの成長した自分だ。 何年経っていようと、絶対にあの時の別れを心に秘めて、東堂の事を忘れずにいるに違いない…だって自分、なのだから。 黙って自己満足で、東堂が幸せならばいいと連絡を取らないだけで、現状を知れば…歩み寄れるのは目に見えている。 元の時代に戻れるならば、言うべき事を伝えて、自分は帰ろう。 そう決意し、巻島はまだ読んでいない一冊を手にし、考察を始めた。 以前東堂がドッペルゲンガーに出会うと死亡説を持ち出したが、これは一種の言い換えではないだろうか? 同時代の自分と過去の自分、それらが同じ空間に居合わせることができないというのであれば、片方が消える。 この消えてしまうのは、時間軸の存在意義が弱い方…今で例えるなら自分で、自分が過去に戻るという比喩のようにもとれる。 そこまで推論を出し、巻島は一つ伸びをした。 「んー…荒療治かもしれねぇけど…現代のオレを呼び出したら、オレ過去に…帰れるっショ…?」 ただ、消えてしまうというのはいささがギャンブル率が高く、この時代の自分と会うには勇気がいる。 そろそろ、趣味じゃない本を読み続けるのは限界だ。 息抜き代わりに紅茶をいれ、東堂が撮りだめしておいてくれたDVDを幾つか探せば、タイムトラベルを設定しているドラマをみつけた。 現在の俳優たちではあるが、作品そのものは巻島がいた時代のコミックが原作でなんとなくだがあらすじを、知っている作品だ。 某国営放送の制作であるため、CMはないからか東堂の確認は後回しになっているようだったが、問題はないだろう。 DVDを読み込む速度は、自分のいた時代より少し速い。 カチャカチャと音がして、真っ暗だったテレビ画面が明るくなった。 ドラマは即座には始まらず、少し重々しい音楽がして、来週に放送されるらしい番宣がテレビ画面に映る。 その画面を見た巻島は、リモコンの戻しボタンを押して、今見た映像で一時停止した。 「なんだ…オレはこの時代のオレに出会う心配なんて…なかったっショ…」 なんだか、画面がぼやけて見えた気がした。 ** 「……巻ちゃん……?」 ただいまという前に、鍵が廻る音で巻島は玄関まで迎えに来て「お帰りっショ」と一言言う。 リビングにいてくれて構わないのにと告げても、それぐらいはさせろと答えてくるのが嬉しくて、東堂は頬を弛むのを押さえきれなかった。 だが、今日は。 お迎えどころか、お帰りの声も響かない。 胸がざわつくような予感を抑え、東堂は廊下を進む。 窓から差し込む光の中、今では生活の一部に当然となっている巻島の姿が確認でき、小さく吐息した。 「ん…お帰りっショ…」 巻島は膝を抱えたまま、ソファからのろのろと顔を上げる。 こころなしか、顔色が悪い。 「どうした!巻ちゃん具合でも悪いのか!?」 買ってきた荷物をその場に捨てるように放り出し、東堂は巻島の額に手を当てた。 そっと優しく東堂の掌を両手で包み、巻島が小さく微笑んだ。 「東堂…ごめんなァ…この手は…ロードバイクのグリップを握る為にあったのにヨ…」 「ま、巻ちゃんっ!?」 小さな子猫のように、首を傾け擦り寄る巻島に、東堂は困惑しつつも頬を染める。 「オレが…オレなんかの勝手な自己満足で……ちゃんと向き合わなかったせいで、お前の掌随分柔らかくなっちまったっショ……」 薄く巻島が涙を浮かべ、「ごめんな」ともう一度繰り返す。 巻島のいつもと違いすぎる様子に、一度は動揺した東堂だが、徐々に違和感の方が大きくなったのだろう。 いつもの顔色に戻り、それでも訝しげに巻島を見返した。 「どうしたんだ、巻ちゃん……?」 ――ああ、どうやら正解だったらしい。 ちらりと振り返り、テレビ画面を見れば、また自分の存在が一段薄くなったのがわかる。 東堂にもそれは理解できたのだろう。 瞬時に青ざめ巻島の肩を、強い力で掴む。 「…巻ちゃん…何が……」 言いかけた東堂は、先ほどの巻島の視線を辿り、…そしてそのまま硬直をした。 東堂が見ているのは、先ほど巻島が見ていた録画番組の一部。 動かぬまま、凍りついている東堂の衝撃は…自分と同じぐらいだろうか。 「東堂、嘘つきっショ…どうあがいたって、オレはこの時代のオレと出会えないじゃねえか」 東堂の動きを追って、もう一度テレビ画面を見た巻島は、またほんの少し質量が希薄になったように見える。 「お…なんか…あっちが透けて見えるっぽいっショ……」 動けぬ東堂に代わり、目にしている現実をそのまま巻島が何気なく口にすれば、東堂は衝撃を受けた様子で、痣が残りそうなほど強い力で巻島を抱き寄せた。 「……っ……」 何も言えず、喉奥で息を殺して震える東堂の様子を見て、巻島は確信をした。 「なァ東堂…オレは…死んでたんだな」 ――ああ、……オレの指先の色、…また薄くなったっショ……嬉しくねえけど正解……か 「違う!!」 間髪いれず、耳元近くで東堂が叫ぶ。 「違う、違う、違う!!巻ちゃんは死んでなんかいるものかっ!!ここに、こうして……巻ちゃんはいるだろっ!!」 「……ショ……」 時間にすれば、1時間も経っていないだろう、停止したままのテレビ画面。 そこに映されていたのは『あの事件を追う ○○海域で墜落した××航空の悲劇』という特番の予告だった。 小さく記載されている日付は、巻島が渡英をするはずだった日。 そして画面に大きく映写されているのは、巻島が乗っているはずだった機体だ。 行方不明数人、生存者も存在しているが画面上には日本人全員死亡(もしくは行方不明)、の文字が赤く衝撃的なフォントで、彩っている。 「オレは最期に…お前に会いたいって…会って謝りたいって思ったから…ここにこれたかも知れねえなァ…」 そう呟けば、ますます巻島の透明化は進み、もう指先はクラゲのように半透明だ。 「何言ってんだよ巻ちゃんっ!最期とか言うなっ!!」 「なあ東堂、受け入れろよ 本当はお前が一番、わかってたっショ?」 巻島にニュースや録画でない放送を見せたがらなかったのは、この事件を知らせたくなかったからで、過去の知人に会うなと厳命したのは、巻島がすでに死んだ人間だからだ。 「違うっ…違う……いやだ巻ちゃん、二度も…二度もオレを置いていくな!!」 考えてみれば「オレの人生から奪った」なんて台詞、フラれた程度で東堂が吐く筈がない。 自己満足な勝手な思惑ではなく、区切りを付けたとの理由で、巻島が東堂の告白に答えなかったとしても、東堂はそれなりのアプローチを続けていたに違いない。 「ごめん、なァ…東堂…」 「謝んなよ巻ちゃんっ!!消えるなんてダメだからな許さんよっ……嫌だっ……」 「……ありがとな……東堂 お前が好きだったっショ…だから…幸せ……に……」 「オレ一人で幸せになれるもんかっ!巻ちゃんだって……巻ちゃんが一緒に……!」 「と…ぉ……ど………」 もう東堂の腕の中に、質感はない。 「いやだ、嫌だ嫌だ巻ちゃんっ!!……巻ちゃんっ!」 ただの空間にかろうじて残る、残像のような18歳の巻島だけがそこに存在していた。 「巻ちゃん……っ……!」 東堂の涙が頬を濡らし、消えかけた巻島を通過して、ソファの敷布を色濃くした。 巻島の唇が、何事かを呟き……ゆっくりと溶けるように残滓を残し、それが薄れを繰り返し…そして消えた。 最高の笑顔も泣き顔も、髪の一筋すら、もうそこには何もない。 あとはただ、押し殺した嗚咽が室内に響くだけだった。 *** 氷が水中に溶けるように、ゆっくりと薄くなっていく巻島が最後に残したのは 『幸せになれ』の一言だった。 「幸せになんて…なれるはずがねえだろ……巻ちゃん……」 透明なグラスに注ぐのも面倒になって、ガラス瓶の首を持った東堂はそのまま、琥珀色の液体を喉へと流し込んだ。 アルコール臭は部屋に充満し、倒れたゴミ箱はそのままだけど、もうそんな事すらどうでもいい。 ピンポーン…… このベルは、自室に直接来客があった時のベルだ。 本来ならば一度違うベル音があり、オートロックを解除し、その後部屋を訪れるはずだが、誰かと一緒にエントランス部分を通り抜けたか、もしくはまとめての宅配だろう。 注文をしておいたのは自分だが、今は玄関に向かう気力すらない。 そのベル音を無視することに、罪悪感すら覚えぬのだから、どうしようもないと、東堂は乱れた髪をかきあげ、自嘲した。 ピンポーン……ピンポーン……ピンポーン…… 「うるさい……」 ピンポーン…… 「うるせぇんだよっ!」 ピンポーン……ピンポーン…… もともと八つ当たりで、来訪者に罪はない。 ただこの耳障りな音を消したくて、東堂はインターフォンへと向かった。 「………え……?……」 インターフォンの来客を確認するための小さな画面に映っていたのは、宅配業者ではなかった。 息を飲んだ東堂は、顔色を失くし玄関へと向かう。 ウソだとも、本当かとの疑念すら浮かぶ余裕がなく、今目にしたものが現実か確かめたくて、震える指をもどかしく玄関の鍵を廻した。 暗い室内に慣れた目に、派手な色彩と光が飛び込んだ。 「…よ……よぉ東堂……その…調子はどうだァ…?」 言葉をなくし唖然としている東堂に、目の前の玉虫色の髪の男は、下手くそな笑顔を作った。 「………巻……ちゃん……?…」 二の句が告げず、強張ったままの東堂は現実が受け入れられずにいた。 「…えっと……そーですオレが、変な巻ちゃんです…ショ」 空気の読めない、この滑った発言は自分の知っている巻島のもの…な気はする。 しかし目の前にいる巻島は、自分と変わらぬ年代の…東堂にしてみれば、願っても見ることはできなかった、奇跡とも言える存在の巻島だ。 「その…久しぶりっショ………えっと…オレに残ってる記憶だと…お前と別れたの数日前なんだけど…」 再会した巻島は、指折りで現状を東堂へと述べる。 玄関でする話ではないと思っても、脳も体も、色々な感情に襲われすぎて、何も対処ができていない。 「勝手なんだけどよ、オレは…まあ…失恋した気持ちになってったっショ」 東堂とのやり取りの直後、免税店などがある一角にあった美容室で髪を切って、地毛の色に戻したのだと巻島は言った。 薄い茶髪でショートカットで搭乗した機体での、事故。 そのせいでパスポートの写真と照合して、本人と確認されず、記憶を失ったまま病院に入っていたこと。 しかも収容された先での英会話のやり取りを、すんなり受け入れていたのと、外見の特色があいまって、身元不明の英国人としてカウントされていたこと。 身元不明ではあったがあきらかに事故の関係者であったので、生活に関わる費用や身分保障は航空会社が行っていたことなどを、巻島は指折りで記憶を辿るように告げる。 最近になってようやく、巻島が少しずつ記憶を回復したことと、何年たっても諦めず捜索を続けていた家族が『ひょっとして』と面会に来て、涙ながらの再会を遂げ …今自分はここにいるのだと、巻島は言った。 「…で、不思議なんだけどヨ…なんか…心配かけまくった家族とか、迷惑かけた周囲の人とかにいっぱい謝らなくちゃいけねえ筈…なのに…」 少し俯いて、巻島は言葉を切った。 「どうしても東堂に会って、…ごめん……いや違う…好きだって言わなくちゃいけねえ……って……」 巻ちゃん、巻ちゃん、巻ちゃん……何度も連呼した名前なのに、舌が喉に貼り付いたように、何も言えず、東堂は何度も唇で巻島と形どる。 東堂の視界が、白く霞む。 頬を濡らす涙は、ついこの前に経験したばかりなのに、ひたすらそれが熱く感じた。 手を伸ばせばそこに、細いけれどしっかりした骨を持った巻島の腕があり、手ごたえがある。 温かい。 『巻ちゃん、おかえり』 その一言がどうしても紡げぬ東堂に、巻島は小さく「ただいまっショ」と呟き、ただ微笑んだ。 |