贖罪5

冴え渡る月は、血を凍らせる。
 狂気が躰を支配し、悪魔の支配下の時間へと
変化させる。

 哀しいほど、美しい蒼い月。
「…来たか」
 崩れかけた壁の背後、青冷め
それでも まっすぐに ショウを睨み付ける
キョーコがいた。

「…来いよ」
禍禍しい それでいて 心を捕らえる
甘い声。

「アナタの 言葉に従って
来た訳じゃないわ」
 どうか、自分の声が震えてませんように。
弱みを見せまいと 振絞ったキョーコの声に、
ショウが 微笑みを浮かべた。
 威しに近い言葉で、自分を呼び出したとは
思えぬ、優しい唇で。

「俺の元へ 来たのなら
どんな理由だろうと、構わない」

 血を思わせる、紅く尖った爪が
鋭く キョーコへ向う。

「ここへ来た、という事実だけで充分だ。
お前は、ミモリを裏切った」
 
短く、息をのみ 唇を噛み締めたキョーコ。
 目を叛けていた真実と言う剣が、
キョーコの心臓を貫いた。
 呼吸の一つ一つが、毒に満たされるように
鼓動を支配する。

「…アナタになんて、従わない。
私は、ミモリの…幸せを 祈るだけだわ。」

 自分の言葉が、自己満足のためだとよく
わかっている。 だが、それでも。
怨まれる事になっても。
 こうする事しか、逃げ道を見つけられなかった。


 影を落とす崩れかけたバルコニー縁に、腰をかけた
ショウに、一気に走りより…
全身の力を込めて、虚無の闇へと叩き落した。
 驚愕に満ちた双眸が、キョーコを捉える。

『ごめんなさい…ごめんなさい。
 でも、何度 生まれ変わっても…私は
きっと 今の道を 選んでしまう。
 悪魔のものになるぐらいは、構わない。
でも、その事実を ミモリが知ったら?

悪魔の虜となった私と、それで 勝ち誇ったショウを見たら?

守りたいと願った 私が 誰より大きな瑕を あの子に
与えてしまう。
 ミモリには、手紙を残しておくわ。
自分が、病で長くないとの 偽りの手紙。

そして、その事を耐えられない弱い自分は
命を絶つと。
 ショウは偶然私を見つけ、止めようと
したけれど、私の過ちで 撒きこまれてしまったと

偽りで綴った 最期の文章
少しでも、 あの子の痛みを 早く和らげてくれますように』


祈りを込めて、便箋を石でとめたキョーコ。

「っ……!」
その瞬間 しなやかな、キョーコの背が反り返った。
 肩甲骨脇から 生まれる、耐えがたい激痛。
灼けつき、肉を焦す 痛みが 躰中に 駆け巡る。
「…ック」

あぁ、大罪を犯した私の躰が、悪魔へと
変化し始めたのだ。
 痛く、ない。
これから 受ける ミモリの痛みに
比べれば。
 痛くなんか、ない。
裏切りでも、酷い男でも、自分が殺してしまった
男への罪を 思えば。

「アウッ」
 ビクリッと 躰が揺れる。肉を裂き、骨が軋む音。
細胞の一つ一つが、闇のものへ染まり、生まれ変わろうとしているのだ。

 何とか、自分の意識があるうちに…
ショウの後を追わなければ。
 朦朧と、頼りなげな足取りで バルコニー縁へと
辿りつくキョーコ。
 
だが、その場で力尽き、がくりと倒れこむ。

「…キョーコッ!」

ありえない、声。
 最後に聞きたいと願った、優しく低いレンの声。
幻聴かと、首を擡げたキョーコの目に、
夜目にも眩しい白い翼の天使が、映る。

「レン…」

 先程まで、キョーコがいた壁後に
レンが立っていた。
「様子が おかしかったから
探した。…何があった?」

 息を切らした言葉は、どれだけ
自分を必死で探していてくれたかが
伝わってくる。

 最後の力を尽くし、壁にもたれかかるキョーコ。
「来ないでっ!」

貴方が嫌悪する、悪魔へと身を墜とした
醜い 自分を 見られたくない。
 ううん、醜いのは姿じゃなく
自分の心。

悲鳴にも似た、キョーコの叫びに
レンが脚を止めた。

「キョーコ…?」
「来ないで…下さい。 私は 貴方と
同じ場所に いられる 資格がないんです」

 先程までの、苦痛から滲み出た涙が
心の痛みの涙に代わる。

 この躰が、変わってしまう前に。
貴方に 汚らわしいと忌まれる前に。
早く、消してしまおう。

 レンが止める間もなかった。
一歩を踏み出すより先に、キョーコの姿は
壁を越え、虚空へと舞った。

「キョーコォッ!!」
 ムダだと分っていても、差し伸ばす その手。

「…何故だ…」

呟くレンの血が滲むほど握り締められた拳。
 脳神経が、麻痺している。 繰り返し、レンの脳裏に浮かぶのは
最期のキョーコの 微笑み。

「何故だーーーっ!」

 あぁ、どこまで 自分は愚かしいのだろう。
あの場で、ムダだと分っていても。
 翼を広げ キョーコを追いかけるべきだったのに。

 自殺が赦されぬ、自分たちの種族の理を犯したキョーコを
 ちっぽけな自分の正義感が 躊躇う事で 見捨てたのだ。

 自身への嫌悪で、身が震える。
後追いすら、タブーだと 行えない自分。

ならば…

『自分の力を 全て費やし
 俺達の 魂が 転生するよう 
この身で 贖おう』

 生まれ変わって、出遭えても 俺達が俺達であるように。
…いつか キョーコと 巡り合えるように。

その夜から、大天使と謳われたレンの姿を見るものは
誰もいなくなった。

------------そして。
 転生したキョーコは、尚と出会う。
屈折した 償いが 恋心へと変わり。

レンへの、罪悪感が 反発心へと変わり。

 ようやく 巡り合えた 悪魔と天使たち。
彼等の 新しい物語が 紡がれるのは これからのお話である。

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ようやく 完結させられました 贖罪。
あまり勝手な話にすると、別物だし
 かといって、キョーコちゃんが尚を殺しての
アンハッピーエンドでの終らせ方は イヤなので
迷っていたのですが、レンを無理矢理登場させて…。
 最初はここまで長い お話になる予定はまったく ありませんでした(笑)

 ショウの殺される場面を あっさり飛ばしたのは
そこに贖罪1が 入るからです