望みと代償

「十兵衛…命令だよ」
珍しい出来事だった。
 戦闘の最中や『絃の花月』である時の
花月は、時折 指令を下す口調になることがあっても
二人きりでいる時は、決して
人に 強制などしたことが無かったのだから。
 
 訝しく、その端整な眉を顰めた
十兵衛に、花月が微笑みかける。

 透明に澄み切った水を、音で表現すれば
こんな感じになるのではないか。
 気を取られる
十兵衛の耳元に、シャランと鈴の音が近づき、
 続く 花月の囁き。
「十兵衛は、筧の跡取だから…
僕…のせいで 無限城まで
来てしまったのだから…道を 誤らないで。
…僕なんかを 好きにならないでね」

「何…を」
 今更、と続けようとした十兵衛の唇を
花月の繊手が、軽く塞いだ。
「…今更って言いたそうだよね。
十兵衛が 筧の定めで僕に従ってくれてるのは
わかってるよ。 だから これは僕への
戒めなんだ。…僕が、十兵衛を好きだといっても
十兵衛は 聞き流してね」
 
 呆気に取られる思いで、花月を見下ろしていた十兵衛。
確かに続けようとした言葉は、「今更」だが
意味が違う。
十兵衛の続けようといていた「今更」は
『初めて逢った時から、好きでいる相手を
今更好きになるな、とは 無理だ』
という 言葉だった。
だが それを声にするより先に。
「約束…だよ」
 はかなく、淡い 融けてしまいそうな
口付け。
 その感触だけを残し、花月は去っていった。

 以来、花月は 十兵衛と軽いキスを繰り返す。
いや、「十兵衛と」ではない。花月の気まぐれで
一方的なのだから「十兵衛へ」の方が
ふさわしいだろう。
まるで、あの時の言葉を試すように
触れるだけの 唇。

花月の戯れだろうか。
好きになるなと命じながら、
からかうように、身を寄せる。


 数ヶ月の、忍耐。
だが、それも限界にきていた。

 花月を求める気持ちは、否定された事で
かえって増大していた。
優しい微笑みの下の、冷淡な拒絶が
憎しみすら誘う。
 自分の思いを許さぬ花月の 
心が こんなにも近くにいながら 読めない。
つのる苛立ちを、戦闘で敵へとぶつけても
 拭い切れず、昏い澱みが心へと巣食う。
血塗られた指先を見詰める 十兵衛の双眸は
一層深い 闇色へ染まろうとしていた。

…花月は、自分の変化を気付こうともしない。
禍禍しい、おのれの欲望を 意識した
十兵衛は 薄く笑った。

「お疲れ様」

帰ってきた十兵衛を出迎える、花月。
 まるで、『御褒美』 とでもいうように
悪戯っぽく 唇を寄せてきた。

…穏やかで 優雅な 動作。
 
 そして、それが 十兵衛の最後の理性を
打ち破った。
軽く寄せていただけの花月の躰を、引き寄せる。
 離そうとした唇を、追い掛け更に深く
口を重ねる。
 予測すらしていなかったのだろう。
逃げる事も忘れ、虹彩を広げ
十兵衛を凝視する 花月。

 十兵衛の大振りな掌が、腰に廻され
強く抱き寄せられ、初めて内心不安になったのか
身じろぎをはじめた。
だが、勿論 縛める力は 強くなるばかりで
花月の細い躰を、十兵衛の腕の中へ封じこめる。
 「んっ…!」
無理な体勢を承知で、顔を反らそうと
首を振る花月。

 花月のささやかな反抗も、十兵衛の欲望を煽るばかりだった。
白い顎先を、乱暴に引き寄せ
 息苦しさに 僅かに開いた白玉の隙間に
舌を潜り込ませる。 怯えて乾きかけた
口蓋が、十兵衛の唾液で ぬめり光る。
今までの、重ねただけの唇では 
味わいきれなかった、花月の口腔。
 逃げる舌を追い掛け、自分のそれに
無理矢理絡ませる。
 歯茎の裏側まで 舐め尽くし
花月の力を 奪う。


続く