【東巻】イミテーションな誰かでは



巻島裕介は、人生でこれほど困った頃はないのではと思うほど、現在困り果てていた。
つい先ほどまでは、東堂をロードバイク二台程の差で引き離して、優勝をしたレースを気分良く楽しんでいた。
鼻歌混じりで、扉に手をかけようとしたその直後に、これだ。

あとはシャワーを浴びて、着替えてさっぱりと帰るだけの筈だった。
なのに訳のわからぬまま、集団の女の子に囲まれ、そのまま更衣ロッカールームの裏へと連れて行かれてしまう。
本来であれば、逃げるに限るという状況だが、巻島が少し訝しく思ったのが、その団体がある程度見知っている顔ぶれだったからだ。

幾つかのレースで、東堂の応援にマメに足を運んでいる女子達だ。
行きずり上に目礼をされた事なら、何度かある。
東堂FANを自称する子たちは、たとえ自分に興味がなくても、顔ぐらいは覚えているのだろう…とすると、その関連でしか原因は思いつかない。

(な…なにかオレやったっショ?それとも前回と今回、オレが連続勝ったからシメられるとかっショ!?)

東堂に用事というのならば、呼び出そうかと提案するより先に、すでに自分を中心とする壁は完成されてしまっていた。

遠目から見れば、女の子に囲まれてご満悦な男の図なのかもしれない。
しかし少し近寄ってみれば、詰め寄る女の子たちはなぜか涙目で、詰め寄られている方はといえば、元の造作もあろうが、眉尻が下がり、
どこか悩ましげな泣き顔めいた憂い顔に見える。
…つまり、全員が揃いも揃って泣きそうな表情なのだ。

一人の背丈の小さい子が、東堂様FCと書かれた団扇を手にして、巻島へと一歩近づいた。
パーソナルスペースが広い巻島は、反射的に同じ幅だけ下がろうとするが、後ろの樹木に阻まれる。

「…どうして…なんですか……」
とじわり目を潤ませ、その子が巻島へと見上げるように縋ると、他の女の子たちも声をそろえて
「「巻ちゃんさんだから…!私たち 諦められると思ったのに!!」」
と輪を狭めて、詰め寄ってくるのだ。
「何の話…か、ちょっと…わからねえんだけど…」
「だから!東堂様は!!巻ちゃんさんが捕まえててくれないと駄目なんです!」
「いえ、捉まえてなくても構いませんっ でも、でも…巻ちゃんさんのフリをされて…奪われるなんて…」
「納得いきません!!」
じわじわと、詰め寄られてくる恐怖。

現状はよくわからないが、とにかく東堂が「巻島っぽい要素」を真似した女の子に騙されようとしている…という事らしい。

「ショォ…」
(オレのせいじゃねえっショ…)
そう言い返したいのはヤマヤマだが、泣いている女子の団体に、同世代の男が一人で立ち向かえるはずもない。
「…あと……悪ィ…ちょっと整理したいから、もっぺん…話して欲しいっショ」
巻島には、現状を再確認するためそう告げるのが精一杯だった。

基本的に『東堂様FC(ファンクラブ』のメンバーは、女の子の集団としてかなり、性質のいいタイプだった。
それなりに規律もあり、距離無しに接してきたり、東堂に構われたいがばかりに、周囲の悪口を言う者もいない。
もっとも、それは曲がったことを嫌う、東堂自身の性質に由来をしているのかもしれない。

初対面でえらくぞんざいに、「知らねぇな」と言ってのけたとは思えぬほど、普段の東堂は礼儀正しかった。
巻島にしてみれば、初対面の東堂は随分と狭量な、嫌なヤツでしかなかった。
しかし、親しくなってからそれを指摘したところ
「頼む、言わんでくれ… オレはあの時より先も後も、普段はあんな言い方をしたことはないんだ」
と顔を赤く、頭を東堂は抱えて呻いていたので、どうやらあの時の行動は、例外だったらしい。

何故あの時あんな振る舞いをしてしまったのか、自分でも理解できない。
忘れたい黒歴史だ、今もって許しがたい愚行だった、そうだ巻ちゃんが特別だからだなどと、言い訳じみた言葉を並べる東堂。
その横にいた箱学のメンバー達も、当時のその行動をを意外そうに聞いていたから、まあ事実なのだろう。

まあそれはそれとして、だ。
どうやら巻島が関しない所の『東堂様』というのは、頭脳明晰・礼儀正しく、自制しつつも明朗さを失わない男…らしい。
――誰っショ、それ
声に出さず、思わずマジマジと見詰めてしまえば、
「なぜ『らしい』なのだ巻ちゃん!ここに!きちんと!!実物を見ているだろう!!」
と東堂には叫ばれた記憶がある。

しかし、同じレースに出ていたヤツの名前も覚えていない・いきなりタマムシ呼ばわり、規制をかけなければ一日に何度も携帯を鳴らす、
面倒だから無視をすれば、常軌を逸したのではと思われる声で、必死で呼びかけてくる。
…自分が知っている東堂は、こうっショと一つ一つに回答をすれば、また東堂は頭を抱えた。

「違う…違うんだ巻ちゃん……普段のオレは……巻ちゃんだから……」
「オレのせいかよ」
そう憮然と返せば、違うと叫んだ後で、
「ああ…でも巻ちゃんだからかも…巻ちゃんのせいか…な…」と東堂は遠い目をして、巻島としては理不尽極まりない言いがかりだ。

そして現在の事態は、やはり東堂のせいの言いがかりだとしか思えない。

「東堂様ともあろう方が!…あの、東堂様見かけと知名度と、将来性がステータスになるからなんて擦り寄ってる勘違い女に騙されてるなんて…耐えられません!!」
「しかもその方法が卑怯すぎます!」
「そうよずるいっ」
「私だって…」
「私たちだって!気がついていたのにっ!!東堂さまに話しかけて貰いたかったら、巻島さんと共通する何かを持っていればいいって…!」
そういって、わっと泣き出した女の子たちに、巻島はただおろおろとするしかなかった。

よくわからないが、東堂に話しかけるのに自分をダシにすれば言いという事だろうか。
確かに人前であれだけ、巻島の事を永遠のライバルだと公言しているのだ。
無視をしにくい話題には違いない…。違いないが、それは自分のせいなのだろうか。

「ショォ…」
途方にくれて周囲を見渡せば、見慣れた白地に青、赤いラインが胸元に入ったライバル校のサイクリングジャージが目に入った。
箱学の生徒の誰かが二人、通りがかっている。
人見知りをする巻島だが、この際もう男であれば、誰でもいいという心境だった。
少なくとも泣いている女性の団体よりは、話が通じるはずだ。

何とか現状から逃れよう、知り合いに会った振りをしてこの場から抜け出したい。
頼むから、こちらへ気付いて話しかけてくれないかと、必死で通りがかる二人へ目線を送る。

「……あれ、巻島じゃねェ?なァんかすげぇこっち、見てんだケド」
走り終わった後の、炭酸の甘みと爽やかさを楽しんでいた荒北が、何かを感じたらしく、新開へと後方を見るよう指差す。
「ああ、裕介くんだね…何をやっているんだろう」

さほど巻島とは親しくない…正確には、彼の名前と東堂がやらかしている行為を知っているぐらいの相手だ。
だがしかし、東堂の様々な行動を知っている身としては、同じ部の部員としてかなりの借りはある気持ちに、無意識になってしまっている。
いつ何時、ストーカーだと警察にかけこまれても、物的証拠がありすぎて、言い逃れができない相手。
部員総出で土下座を強要されても、正直従うしかないかもしれないとすら、思っているライバル校のクライマー。

「なんだか助けを求めてるように見えるんだけど?」
咥えていたパワーバーバナナ味を、新開が手で持ったのは、食べながらではなくきちんと対応すべきと、判断したからだろう。
「…っつーか、あれ東堂の周りの女達じゃネェ?」
目を細めた荒北に、新開も改めて観察しなおせば、見慣れた顔に、見慣れた小道具。
「まずいな…」

巻島は、東堂が日頃から仲が良いと公言している相手ではあるが、東堂のファンクラブから見れば、
『東堂さまの邪魔をする、鬱陶しい相手』でもあるに違いない。
おかしな言いがかりをつけて、何らかの妨害をしたとあれば、「自分たちと無関係です」ではすまされない。

新開と連携を確認するより先に、荒北は大股で、巻島を囲む団体へと歩み寄っていった。
眉尻を下げた巻島が、明らかに安堵の表情を浮かべている。
さきほどの不安が、懸念ではすまないと新開も確信したのだろう。
泰全とではあるが、すぐに動き出し荒北へと並んで巻島へと向かう。

「オイっ お前ら何してんだッ!?」
「君たち、尽八のファンクラブの子達だろう?問題を起こしたら尽八にも……」
怒鳴ろうとしていた荒北、諭そうとしていた新開は、喉奥で小さく「うっ」と呻いて、一歩退いた。
そろいも揃って涙目で、女の子の集団が自分たちを見上げてきている光景には、たじろいでしまって当然だろう。
しかも一人、二人の泣き顔ではない。
その場にいた者…巻島も含めて全て、の泣き顔だ。

「えっと……裕介くん、何があったか…聞いてもいいかな」
一番早く立ち直ったのは、箱根の鬼こと全国級に名前を知られる、エーススプリンターだった。
感情の触れ幅が少ない新開は、荒北や巻島ほど、女の子を相手にするのをさほど苦手としていない。
だがそれでも、集団で泣いている女の子よりは、まだ困りきっている様子のライバル校選手の方が話が通じやすいと踏んだようだ。

「オ、オレ何もしてねぇっショ!?」
ふるふると首を振る巻島に、いやこの状況で、お前が誰かに何かしてるとは思わねえよ、むしろ心配しているのはその逆だと、成行きを見守る二人は思う。
「お見苦しいところを…申し訳ございません 私が説明いたします」
白いハンカチで涙を拭い、すっと前へ出てきた女の子は、大会などでもよく見かける顔ぶれの一人だった。
髪は短めだが、全体的に凜としていて女性らしい動作は、荒北たちにも記憶がある。

そう言って彼女が語り始めた内容は、荒北と新開が案じていたもの…に近くはあるが、更にその斜め上をいったものだった。

日頃から東堂を見つめ続けていた彼女たちは、自分達が好きになった…応援したいと思う東堂は、巻島という存在があってものだと、折り合いをつけている。
その証拠に、さほど容姿は変わっていなかった高二半ば頃まで、東堂を密かに思う者はいても、ファンクラブという目に見える形では存在をしていなかったのだ。

快活でありながら、どこか人を弾く壁を持っていた東堂。
それがいつしか、自分たちを受け入れるようになってくれたのは、…少し切ないけれど、巻島の存在ゆえだと、淡い恋を懐いていた者達は自然と気付く。
そこで生まれたのが、東堂様FC不文律だった。

『巻ちゃんさん』という、特別な存在を込みで東堂を応援すること。
抜け駆けをしたければ、正々堂々と東堂に迷惑をかけぬよう、告白をすること。
フラれたからと言って、巻ちゃんさんを逆恨みしたり、まして害する行為など言語道断!!

「私たちは!東堂様と張り合って東堂様認めた方で、東堂様の誰にも見せないような表情を見せる巻ちゃんさんだからこそ!私たちの気持ちを抑えていたのにっ」
「そうよっ!それなのにあの女……巻ちゃんさんが柑橘系ミントの香りがするシャンプーを使っていると聞けば、それに似たようなものを使って…」
「東堂くんが…巻ちゃんさん専用に使っている着メロを!偶然利用した振りして東堂君の前で鳴るように設定して!!」
「これみよがしに、『今流行してるらしいんだー?』とか言って、目元や口元につけボクロをしたりして…!」
「ふざけんなふざけんなふざけんな 私たちだってアンタのずっと前から、東堂様の気を惹きたかったら、巻ちゃんさんと同じものを使えばいいなんてとおおっくに知ってたわよ…」
「何が『似合う髪にセットしてくださいって、美容師さんに頼んだらこんな髪型になっちゃった』よ…あんたが巻ちゃんさんの切り抜き持ってったの、皆知ってるわ…」
「バカじゃね?現実見ろよ 東堂君が笑顔で接してくれてんのは、アンタが必死で巻ちゃんさんの真似してるからだよ!」
「巻ちゃんさんの身長体重だって、好きな食べ物だって好きなブランドだって、こっちは知ってるっつーの 何がそれを利用しないアンタ達が要領悪いだけじゃん…よ…」

――怖い。
これは、怖い。
しくしくと泣いているような声ではありながら、一人が呟けば、その呟きは徐々に伝染し、低く黒い声がうねりとなって、攻め立ててくる。

(助けて)
涙目で訴える巻島だが、流石にこれにすぐさま対応できるほど、荒北も新開も人生経験はまだない。
とりあえず、話題を少しでも浮上させるべく、
「えっと…みんな、裕介くんのこと、詳しいんだね」と新開が宥めるように言えば、すかさず
「東堂さまの会話を、みんな毎日聞いていますから!」と、そこは笑顔で返されてしまった。
テンパっている巻島は、まだ気がついていないようだが、巻島のプライベートに個人情報を、誰かさんがべらべらと箱根学園で撒き散らしていると、暴露されたのだ。
これで、ますます逃げるわけにはいかなくなってしまったと、荒北は小さく溜息をついた。

「えっと…大変ショ」

重苦しい空気に、何かを言わなくてはという義務感に駆られたらしい巻島が、困ったように小さく頷いた。
「そうなんですっ!!大変なんです!!」
「解って下さったんですね!」
「ありがとうございますっ!ありがとうございます!!私たち!全面にバックアップしますから!!」

「…え?」

相槌程度の気持ちでの一言に、全面で食いつかれてしまった。
「「本物は偽物になんて敵わないんだって!!あの女……ゴホッすみませんあの子に!思い知らせてやってください!!」」

女の子、怖いっショ…。
リアリストとはいっても、いつもふわふわきゃっきゃと、可愛く東堂を応援する彼女達に、巻島は夢を見ていた。
現実は、現実だもう逃げられそうもない。
せめてもの道連れと、目を背けて立っている荒北新開へと歩み寄り、巻島は二人のジャージの裾を握った。

[newpage]
****

ふ、と匂った香りに東堂は思わず足を止めた。
爽やかな柑橘系の香りと、清涼感のあるミントが混ざった香気に、無意識に視線が周囲を泳ぐ。

目に留まったのは、薄茶の緩くウェーブがかかった髪を肩から流し、微笑んでいる女の子だった。
東堂から見て、右側の目元と口元に、ホクロ。
白い肌とマツゲに、どこか惹かれて東堂が目で追えば、彼女の手には『東堂様こっちを向いて!』と書かれた団扇があった。
「すまんね 今日はオレの優勝する勇姿を見せてやれなかったな」
微笑んでそう言えば、相手も笑顔を浮かべ
「ううん、東堂君が一生懸命走ってる姿を見てるだけで…私、幸せだった」と答えた。

「あ、あの…東堂様…」
いつも応援に来てくれているファンクラブの一人が、何か言いたげにこちらを見ているが、なぜか今目の前にいる子から、視線を外したくなくて、東堂は軽く会釈をして流す。
瞬間、東堂にすら気付かれぬほど、ほんのわずかだったが、東堂の前に立っていた相手は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
異性である東堂とは違い、同性であるファンクラブの子は、その表情に気がついたのだろう。
瞬時に顔をこわばらせ、その子はその場から去っていった。

離れていく背中を見て、いつも足を運んでくれている相手なのにと、少し申し訳なく思う。
だがどうしても、目の前の女の子と、話がしてみたかった。
何故こうも気になるのだろうと、東堂は改めて、女性を見直す。

自分にとってひどく印象的なのに、今までのレース観戦に来てくれていた子の顔を思い出しても、記憶の中に目の前の彼女はいなかった。
「…応援には、よく来てくれているのだろうか?」
「ううん、ごめんなさい…いつもは、こっそり隠れて応援してたの こうやって…東堂くんの前に出てきたのは初めてなんだ…話しかけてもらえて嬉しい」
「ありがとう…その、よかったら名前を…」
「あ、私 普段友達からは苗字で呼ばれているんですけど、名前はマイって言うんです 東堂君にマイちゃんって呼んでもらえたら…」
嬉しいな?と可愛く続けようとした、彼女の言葉は、東堂が自分の背後を凝視しているのに気付き、止まってしまった。

ほんの数秒前まで、自分しか見ていなかったはずの東堂は、今はまるで自分を視界に入れていなかった。
「あの…東堂君?」
少し困ったように眉根を寄せ、指先で唇を押さえ、上目遣い。
大抵の男だったら、自分の機嫌を損ねただろうかと、慌てて向き直るはずのそのポーズも、東堂は黙殺していた。

仕方がなしに、東堂の目線が向かう方角へ、彼女も視線を向けた。
そこにいたのは、東堂と同じ自転車競技部のレギュラー、新開と荒北だった。
東堂の表情がおかしいのは、その二人の表情が見慣れぬものだったからだろう。
一人は不満があれば、すぐに手が出て解決をするタイプ・もう一人は感情の触れ幅が大きすぎるのか、多少の事では動じぬ、常にほほ笑みを浮かべていられる男だ。

その二人が露わに、困惑を隠そうとしていない。
しかも……二人の背中側、右手を荒北の肩に手にかけ、左手を新開の肩に置いた人物が、俯いたまま背後霊のように従っている。
普通であれば、顔を前の人物の肩で隠そうとして、屈みがちなので、誰とは検討がつけにくい。
だが、彼は特別だ。

どんなに顔や着ている物を隠そうと、キラキラと玉虫色に光を反射している髪が、誰であるかと証明をしているのだから。

(巻ちゃっ……)
いつものように、叫び呼ぼうとした東堂の声は、喉奥に潜っていった。
――何故、巻ちゃんが…荒北や新開と密着をしているのだ。
何か、理由があるのかもしれない。
あるに、違いない、そもそもあの二人は、巻島と喋った回数だって指折り数えるほどのはずだ。

それでも胸奥にもやっとした気持ちが生まれ、東堂は眉を顰めた。
当人はまだ、気付かれていないつもりなのだろう。
顔を隠したまま、ロクに前も見えぬだろうおぼつかない足取りは、正直……可愛いと思ってしまう。
先にこちらに気がついたのは、荒北の方だった。

「あー東堂、とりあえず…お前ェのせーだかんな、誤解すんなヨ」

巻ちゃんと何があった、何かしでかしたと勢いこんで、たたみかけようとした東堂の気負いは、前もって準備をしていたらしい様子で荒北に、すんなりとかわされた。
「しかし…」
「尽八、むしろオメさんのせいとも言えるんだぜ?」
軽く肩をすくめ、巻島の手を自分の肩から、新開がそっと外す。
大丈夫だからと巻島相手に微笑み、手を握っているその姿に、また東堂の胸奥が嫌な感じにざわめきたった。

「うっわ、怖ェ顔」
あきれたような荒北の声も、今の東堂の耳には素通りだ。
巻島に微笑みかける新開も、困ったみたいに顔を赤くして、二人の背から離れない巻島にも、イライラは増していく。
ひそひそと、巻島を宥めるように荒北と新開が話し込み、自分を疎外しているのは、許しがたい。
……なぜなんだ、巻ちゃん。
お前が頼って、話しかけてくるのはオレのはずだろう!?

「あの…東堂くん…」
健気を装った声で、そっと自分の服裾を握る女の子の声も、今の東堂には邪魔にすら感じてしまった。
咄嗟に「うるさい」と返さずにすんだのは、彼女の目元と口元のホクロのおかげだ。

一方、巻島はといえば。
女の子たちに集団で囲まれた時より、困惑は更に増していた。
あの状況から逃れたいのと、勢いに押されたのもあって、とりあえず東堂に話しかけるというのは了承をした。
「…でもよォ…何て言えばいいっショ…オレは東堂のただの友人だし、アイツがいいなと思う女の子の邪魔とか…」
「ただの!?」
「ただの友達の定義を知りたいっ!」
「何言ってるんですかっ」
「貴方があそこに行きさえすれば、解決するんです!!」

しどろもどろに、行っても無駄だと漂わせたつもりだったのだが、女の子たちは叫ぶように、とにかく巻島がそこに行けば解決するのだと、それだけを繰り返す。
――具体的には、何の指示にもなっていないのではないだろうか。

そっと新開と荒北を伺えば、困ったように目線を逸らされたが、それでも荒北は
「あー確かにそれでいいんじゃネェノォ?」と首後ろを指先で掻き、新開も「そうかもね」と短く返す。
「えっ、ちょっ…それ、何の解決策にもなってねェっショ!?」
「…あー…大丈夫、アイツがバカだから、気がついてねェだけで、…ニセモンが並んでりゃかえって、自覚する」
「自覚って何ショ?」
「裕介くん、ごめん でも…大丈夫だから」
「だから何が大丈夫ッショォォォ!」

…結果、混乱したまま巻島は、二人の背後に張り付いて、東堂の前への登場となった訳だ。

「東堂くん、お友達の人でしょ?紹介してほしいな」
重苦しさが漂う空間で、一番に回復したのは、くだんの『ニセモノ』だった。
(メンタル強ェな…)
ある種の感心を押さえる荒北と新開の目配せにも、気付かぬ様子で
「マイです? 東堂くんにも…マイちゃんって呼んで欲しいな」と、小首を傾げて笑う。

…背後の木陰には、ファンクラブの女性たちが隠れている。
その背後からの闇が、重さを増したように感じ、巻島は振り返った。
どうやら気のせいではなく、あきらかに睨みつける彼女達の双眸の角度は吊り上がり、マイを凝視していた。

(え、何でっショ?)
答えがわからず、きゅっと荒北の袖裾を引いた巻島を見て、東堂はついに我慢の限界が越えたらしい。
「巻ちゃんっ!こっち来いよ」
え、え?と戸惑う巻島の態度をものともせず、東堂は巻島を自分と並べ、荒北・新開と向き直った。

「…巻チャン、とりあえず背後のドロドロは『巻ちゃんは東堂さんの特別の呼び方!それぐらい知らないの』って意味だと思うゼ」

『マイちゃんと呼んで』という彼女の言葉が、他女性陣を苛立たせたらしいとは解った。
女性を「ちゃん」付けで呼ぶのは、珍しいものではない、…何が特別なのだろうかと、そちらは解らぬまま巻島は曖昧に頷く。

だが直後、
「荒北、なれなれしく巻ちゃんを巻ちゃんと呼ぶな!」と東堂が言ったおかげで、なんとなく特別…という意味がわかった気がした。
「あー…マイちゃん、さん、東堂、普段は人を苗字でしか呼ばねえっショ こいつの部の主将とか、新開みたいにつきあい長いヤツで初めて別の呼び方になる…みたいで」
フォローのつもりの巻島の言葉に、相手は瞬間むっとしたような表情を浮かべ、木陰の闇は少し薄まった…気がする。

「なかでも!巻ちゃんは特別だ!!」
「あー…そう…なんショ?でもフクとか隼人とか、部活内で呼んでたっショ」
「そうだ!だから被らないようにオレは一生懸命考えたんだぞ『巻ちゃん』って! 巻ちゃんは特別なんだ!」
「あの…えっと、…悪ィっショ なんか…特別なんだって」
東堂の特別は、よくわからないとは思いつつも、これだけ熱心に訴えてくるから、譲れないものなのだろう。
そう思い、マイちゃんの方へ代わりに巻島が謝れば、今度は隠す要素もなく、巻島は相手からきつく睨みつけられた。

新開と荒北の後方からの、プレッシャーが少し弱まったのを察し
「えっと、えっと…その、東堂 お前マイちゃんさんと何か話してた途中っショ? オレ…帰…」
すかさず逃げようとしたが、当然のように呼び止められる。

「巻ちゃん、待ってくれ オレは彼女のシャンプーの香りが、気に入って……」
ふわり、と巻島の髪が風にたなびいて、東堂の鼻腔をくすぐった。
「…ああ、そうか… 巻ちゃんの…匂いに似ていたから……」

じっと自分を凝視してくる東堂に、居心地の悪さを感じる。

「この匂いが好きだってんだったら…オレでいいッショ」
そんなんだから、オレがファンクラブの女の子たちに、絡まれることになるんだとの訴えは、とりあえず飲み込んでおく。
クハッとごまかすように笑っても、東堂はまだ、巻島をじっと見詰めたままだ。
「…そう、だな… 巻ちゃんが…いいんだ…」
「ショ?」
「巻ちゃんだから……」
立ち尽くして、少し呆然としたように自分の名前を呼ぶ東堂を案じ、
「おい、大丈夫かァ? お前、さっきから様子が変っショ」と覗き込めば、東堂はさっと頬を赤らめた。

「…やぁっと自覚したのかヨ」
「尽八は、人の気持ちには敏いのにな」
巻島のおいてけぼり感を置いておき、残りの4人はそれぞれ東堂と巻島のやり取りから、察したものがあったらしい。
そのうちの一人、マイちゃんは、眉を顰めるともう一度キッと巻島をにらみ、きびすを返した。
「私は、少し会うのが遅かっただけなんだから!」

その捨て台詞に、巻島はやはり首を傾げるしかないが、やはり自分以外の者達は意味が通じているようだ。
すでに身を隠していないファンクラブの女の子たちは、互いにハイタッチを交わし、笑顔で頷きあっている。
「遅くても早くても、結果は同じ気がするけどね」
緊張感から放たれたらしい新開が、新しいパワーバーを取り出し、封を切っている。
「だヨネェ」
東堂に『オレらは去ってやるから、今度ベプシな』と言って、荒北たちは立ち去って行った。

「なんなんショ…」
何が何やら、事態がのみこめないうちに、二人きりだ。
「なあ巻ちゃん …オレは巻ちゃんが、特別だったみたいだ」
先ほどまでの勢い込んだ、キレたような様子と違い、まともに目を合わせようとせず、東堂は言う。

――今更、照れくさくなったのか、コイツも可愛いトコあるっショ。

そんな思いが湧いて、巻島は自然と微笑んでいた。
「巻ちゃんも…オレを…特別に思ってくれないか? オレを…選んで欲しい」
少し低い声は、巻島が普段聞きなれた調子と違う。
ここは茶化したら、空気が読めないとさすがに怒られてしまうかもしれないと、巻島は頷き
「オレも東堂… 特別っショ?」と向かい合った。

一緒に山のぼって、大会でしょっちゅう会って、個人的にも競い合って…。
巻島が記憶を頼りに、指折りで数えていけば、東堂は少し眉根を寄せて、困ったように笑う。
「…まあ、いいか 巻ちゃんオレはもう解ったから 覚悟しておけ」
ビシッと擬音がつきそうな勢いで、東堂は巻島を指差し、周囲に宣言するように、言い放つ。

シトラスミントの香りは、もう心を惑わすものではない。
特別な、…大事な香りになったと楽しげに告げる東堂に、巻島は笑いながら
「だから、それオレのシャンプーの香りと同じっショ」と答え、自分の髪先の匂いをかいだ。

そして、「偶然ってあるものなんショ?」と巻島は小さく呟き、長い髪をふわりと、指先で梳き流す。
陽に透けた玉虫色は、キラキラと光を反射していた。

それを見た東堂は、頷きながら「必然だがな」と短く返し、その髪先を無意識に捉まえていた。