ザァァァッ 一段と強さを増した雨は、玄関扉を閉めてなお、その音を響かせていた。 「すっかりビショビショだな…着替えを用意するから、あがってくれ巻ちゃん」 振り返った東堂が、とりあえずとタオルを取りに向かう途中で振り返れば、巻島はまだ靴も脱がず居心地悪げに立ち尽くしている。 「えっと……あの……」 濡らさぬよう抱き締めていたカバンを持つ手に、さらに力を篭めて胸に抱くようにした巻島は、そっと俯く。 「ああ……」 やっと気付いた、というように東堂が苦笑した。 「別によこしまな気持ちはない 巻ちゃんだって自分の家近くで、友人が大雨で困っていたら家へ誘うだろう」 そう言って一呼吸置いた後、東堂は苦笑を困ったような表情へと変化させた。 「不埒な真似をしようとしたら、怒っても構わんから…早く体を拭いてくれ 風邪でも引かれたらオレはずっと後悔する」 そうまで言われて、意固地にその場に立ち続けることはできない。 もともと東堂を嫌ってはいないのだから、本当なら素直に誘いに感謝をすべきなのだと、巻島も頭では理解をしていた。 微妙になっている今の空気の原因は、ほんの数時間前のでき事に遡る。 二人して練習のつもりで登った山で、幸い車や遮蔽物がない状況では。いつしか無言で競い合いになる。 どこをゴールとは決めていないが、お互い山頂は自分だと走りあって全力を尽くし、疲れた身体での展望台での休息は、最高の時間だ。 展望台は貸切のように誰もおらず、並んで座った石造りのベンチも太陽光でほのかに暖かい。 眼下に広がる緑の絨毯に、山向こうの町並み。 一人で眺めているだけでも満足な光景だが、誰より大事な人と同じ景色を楽しめるのに、浮かれずにはいられない。 ほぼ同着だった結果を、お互いに自分の勝ちだと譲らず、それでいて上機嫌に二人は並び座った。 ふ、と訪れた静寂の瞬間に、小鳥の声がした。 話題がない訳ではないが、あまり街中では聴かない鳴き声だと二人して耳を澄ませば、沈黙は続く。 だがその小鳥の声はもう聞こえず、そろそろ何か話さないと気まずいと巻島が唇を開くより先に、東堂が言った。 「…巻ちゃん、好きだ」 多分、自分はこの上なく間の抜けた表情をしていたに違いない。 巻島が今となって回想すれば、そうとしか考えられなかった。 その時脳裏に浮かべていたのは、東堂にどうと話しかけるかであって、昨日の夕飯はだとかうちの後輩はといった日常のありふれた話題だ。 『好き』という言葉は、どこか遠いところから聞こえた気がして、巻島はただ東堂を見上げた。 どう言おう、なんて返そう? 混乱、困惑、狼狽がいきなり押し寄せてきて、心臓がきゅっと縮む気すらした。 ――自分だって東堂が好きだった。 それでもこの真っ直ぐな相手を、すべてに恵まれている男は、自分なんかよりよほどふさわしい相手がいるだろうと吹っ切り、この前ピアス穴を開けたばかりだったのだから。 失恋と言えば髪を切るのが定番だが、それはそれで周囲の反応がうるさい。 身の変化を色々考え、長髪でごまかせるのを幸い、思い切って開けたピアス。 学校では外しているが、今日はこっそりつけてきている。 東堂に何か言われたら、 「気分転換っショ」 と返すやり取りまでシミュレーションしていたのに、これでは想定外過ぎだ。 喉がカラカラで、声が絞り出せない。 脈が昂ぶりすぎて、落ち着けない。 自分も東堂のようにあっさりと、「好きだ」と言えたら、こんなに苦しまずにはすむだろうに。 「行こうか」 「へ? あ、そ…そう…だナ……」 会話を唐突に打ち切って、東堂は愛車へと向かう。 急に背を向けられた巻島は、別の混乱に襲われたが、それでも今の葛藤に比べたら、日常に戻るだけと言った東堂の様子はありがたい。 「あちらの方に黒い雲が見えるだろう?急に天気が悪くなるかもしれん」 そう言って東堂が指し示した方をみれば、確かに雲が流れていき、色も灰色がかってきている。 そして東堂の言葉は現実で、麓にたどり着くまでの僅かな時間で天候は急激に悪化し、揃って豪雨に見舞われてしまったのだ。 東堂の実家が近いと誘われ、遠慮をしたのだが、押し切られてしまった。 まだ夕刻にすらなってはいないが、天候のせいで真っ暗で、無理して走行しても危険なだけだ。 家族はそれぞれ留守がちだからと、風呂を用意しにいった東堂の私室に案内され、きまずげに巻島はタオルを手にした。 つい先ほど好きだといわれ、ロクに返事もしていないのに、部屋を訪れるなど図々しくはないだろうか。 冷えた体に、清潔感のあるふんわりしたタオルは気持ちよかった。 さすがに水が滴るまでになっていた髪は、タオルだけでは間に合わないが、充分に快適だ。 「巻ちゃん、すまないが風呂が沸くまで……」 戻ってきた東堂が、身拵えを整えている巻島をみて、絶句した。 「……巻ちゃん、それ…なんだよ……」 「……?」 『それ』が、何を指しているのか解らず、巻島が首を傾げれば東堂が大股で歩み寄ってきた。 「これだよっ!なんで……巻ちゃん……綺麗な体に勝手に……!!」 かたく節ばった指が、巻島の湿った髪を梳き流し、白い首筋と耳たぶを露わにした。 そこまでされてやっと、巻島はピアスを指していたのかと、気付く。 「あ……えっと……おしゃれっショ?」 実際巻島が耳にしていたのは、透明な深い青の小さな初心者用ピアス。 ……自分の秘めた思いを、託したつもりで購入したもので、一般的に見ても評価は高いはずだ。 なのに、東堂は。 「オレの知らないところで……なんで…」 すっと耳たぶ裏をなでるように触られ、「んっ」と巻島が小さく震えた。 穴を開けて間もないせいか、敏感になったその箇所は、ちょっとした刺激でも痛みに変わる。 腕の中で巻島がピクリと揺れるのを確認し、東堂の指は無意識にそこを何度も弄る。 「あっ…痛……っ……そこ、や……」 上擦った巻島の声に、東堂は息をとめた。 ――駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ、これ以上は駄目だ。 東堂の脳内で、理性が警告を繰り返す。 これ以上見ては、駄目だ。 血液が沸騰しそうなぐらい、鼓動が高鳴って、もう何も考えられなくなる。 欲しくなる。 すぐ間近にある、巻島の甘さすら感じさせる吐息。 自分の知らないところで、その身に残る痕を作られていたのが許せなくて、詰め寄ってしまった距離。 濡れた髪が白い首筋に纏わり付き、まだ癒えていないらしい耳に触れられて、うっすら涙目になっている、愛しい人。 目を、瞑らなくては。 ドォォォォォッン! 雨の音に混じって轟音が響き、そして部屋の明かりはフッと消えた。 「…あ」「え?」 落ちた雷のせいで、停電になったらしい。 急遽訪れた暗闇は、近くなったままの二人の距離を離すきっかけを、遠ざけてしまった。 時折光る稲妻は、艶やかに震える細い体を写し浮かべ、また消える。 ……逃げないのだからだ……いいだろう? 首筋を触れていた手を、巻島の後頭部に移し、東堂が力を強め抱き寄せた。 「好きだ 巻ちゃん」 「…ショ……」 承諾はしていない。 だが抵抗もしない逃げようともしないだけで、巻島の気持ちは充分に伝わった。 次の稲光が映したのは、二人の人物の重なるシルエットだった。 くしっと小さく巻島がクシャミをした。 まるでそれが合図のように、何度か瞬いて蛍光灯は明るさを取り戻した。 「巻ちゃんっ早く風呂に入って、体を温めてくれ!!」 「……誰のせいっショ……」 「…オレだなっ!!」 力いっぱい、これ以上はない嬉しげな表情を返され、巻島は脱力するしかない。 東堂とて同じぐらい、雨に打たれたはずなのに、この明朗な活気はどこから来ているのだろう。 腹いせに、東堂の後頭部を軽く殴る。 「むっ?」 さすがに顔をしかめ振り返る東堂に 「…不埒な真似をしたら、怒っていいってお前が言ったっショ」 と言ってやれば、また自然と頬が緩むようで「…そうだな!」と東堂は笑って返す。 敵わねぇなァと苦笑し、巻島は東堂が先導する風呂場へと脚を進めた。 東堂の手で外されたピアスは、今度はオレが巻ちゃんに穴をあけて、巻ちゃんがオレに開ける日が来るまで預かっておくと、宝箱だというケースに大切にしまわれている。 余談: 「…宝物箱、オレの写真とか髪の毛っぽいのが入ってたように見えたのは…気のせいっショ?」 「ハッハッハッ 巻ちゃん宝箱は大事なものを入れる場所だぞ?」 「そうだよな、変なこと言って悪かったっショ」 って会話が聞こえ、総北自転車競技部部室は現在静まり返っています by小野田 |