【東巻】not純愛バレンタイン

『巻ちゃん、オレはお前とともに過ごせれば、毎日心から幸せな笑顔で、どんな辛いことがあっても、楽しく暮らせるだろうと思っていた』
そこで一度、言葉を切った東堂は無感動に冷たい目で、巻島を見る。
『だが現実はどうだ …お前はオレを怒らせ、嫉妬させ……それをまるで楽しんでいるかのようだ なあ巻ちゃん人の心を踏みにじり、お前は喜んでいるのか?』
そんなことはない、ただ自分は……東堂の怒った顔が好きだっただけだ。

『オレは怒り続けるのに、疲れたよ 好きな相手に何故こうも、心を凍らせなくてはならないのだろうな』』
「ち、違うショ 東堂………」
何を言ってもいい訳だ。
巻島は東堂を、失望させ続けていたのだから。
じんわりとあふれ出た滴が、睫毛を濡らす。

軽薄な唇から溢れる東堂の『好き』は、自分じゃなくても誰にでも、与えられるものだ。
東堂のファン、応援してくれる女の子、箱学の仲間たち…付き合いの広い東堂は、巻島と違い多くの好意を他者から貰い、同じように返す。
「巻ちゃんと登る山が好きだ」
「静かな時間に二人で音楽を聴くのが好きだ」
「寒い日に、一緒に巻ちゃんと布団にいるのが好きだ」
東堂の生活に、『好き』は満ち溢れていて、巻島はただその一部に過ぎないのだ。

だが怒りを滲ませた時の、東堂は違う。
切り捨てるような蔑みの視線を与え、まるで相手の存在を無視する。
構う価値がないとばかりに、東堂の視界にはいないものとして扱われる。
勿論東堂が、巻島にそのような激昂する様子をぶつけたことはない。
腹立たしいと告げながらも、巻島を凝視し、むしろその世界には巻島しかいないみたいに、全てをぶつけてくる。

そして一オクターブ低くなった声で、命令形で巻島に何かを言いつけ、それでも巻島を好きだと言うのだ。

――ぞくり、とする。

冷えた声で、怒りを滲ませた声で、苦悩しながら、それでも東堂は、巻島を愛しているという。
そんな言葉は、きっと自分でなくてはもらえない物だと思うと、巻島は背筋が甘く痺れ、恍惚したようにうっとりと、東堂の声に溺れてしまう。
だから、東堂を何度か怒らせた。
飲み会で遅くなったといって、際どい箇所に紅いマークをつけて帰ったり、腹部のヘソチラや、胸部の上部分にスリットが入ったデザイナーの服を、
あえて着てみたり、どこまで許されるかと挑発をした。
勿論紅い痕は単なる虫刺されで、薬を塗っておけばいいところを、掻き毟ってみたり、スリット入りの服は上にスヌードを巻いたりして誤解を招く行動をするのが
関の山で、実際に際どい真似をする勇気は、巻島にはない。
ただ東堂が、獰猛な目で自分の全身をねめつけるのが、たまらなく心地よかっただけだったのに。

東堂が口端を歪めると、うっとりとした。
鋭く睨まれ独占欲をぶつけられると、胸の奥が熱くなるほど、愛されているような錯覚ができた。
だがそれは、お互いの神経をすり減らすような、愛だったのだろう。
優しさや温もりを、誰だって欲しいのは当然だ。
……東堂だって……例外ではない。

無感動な瞳を向けた東堂の唇が
『もう…無理だ 別れよう』
そう紡いだのを見て、巻島は頬に涙が伝うのを感じ、同時に奈落の底に落ちるみたいな、喪失感に全身を包まれ……目を覚ました。
慌てて身を起こせば、そこはいつもの寝室だった。

「…ゆ、夢……!?」
隣ではカチューシャを外し、髪を下ろした東堂がまだ安らかに寝息を立てている。
(コイツは、髪を下ろして黙ってると、本当に美形ショ…)
自分は東堂にふさわしくないのではないか。
自信溢れた態度に、それにふさわしい容姿と才能を持つ男。
そんな相手を、自分は叱って欲しい、睨みつけて欲しいという欲求だけで、無碍に扱っていたのだ。
……もし夢のように、東堂が本当に思っていたら……?

そういえば、最近東堂は巻島が浮気を装っても、他の男や異性の存在をほのめかしても、何か言いたげに微笑むだけで、東堂は怒らなくなっていた。
栄養バランスの悪い食事をとっても、だまって手料理を用意してくれるだけで、咎めることも少なくなっている。

――東堂はもう、自分に事あるごとに心をすり減らす毎日に、飽いてしまったのかもしれない。

今からでも、償えるだろうか。
ごめんなさい、すまなかった、そんなつもりではなかった…言葉で言いつくろうだけなら、幾らだってできる。
だがそれでは、意味はないのだ。
……嫌われて、しまったのだろうか。
巻島が意図せぬ涙が、はらはらと幾つも零れ落ちた。
その滴が、東堂の頬に当たり、切れ長の瞳がゆっくりと開く。
焦点の定まらぬ瞳孔が、巻島を認識し認めると同時に、東堂は
「…どうした?巻ちゃん」
と単調に聞いた。そして鍛錬で硬くなった指先が、そっと伸びて巻島の涙を拭う。
「な…なんでも、ないショ」

この指を、失いたくないから。
間に合うのであれば今からでも、東堂に優しく、そして暖かいと思える毎日を送ってもらおう。
巻島は決意し、行いを改めるように心がけた。

「…巻ちゃん、最近 おかしくないか?」
朝食を用意しながらも怪訝そうな東堂に、巻島はびくりと体を震わせ、窺うように振り返る。
「お……おかしく、ないショ?」
どうしよう、不自然だったのだろうか。
東堂が夜更かしはよくないといえば、すぐさまベッドに入り、東堂が美味そうだと言ったものは、見かけたら買って帰った。
嫌われたくないから、何かを言われても、逆らわず頷く日々。
無理やり笑顔を作って、東堂に暗い顔を見せぬようにした。
勿論全部が全部、折れて流されるわけでもなく、こちらの意見をぶつけたい事もある。
しかし、そんな不自然さに口数は少なくなったかもしれない。

…無理がばれて、東堂は居心地悪く思っていたら、どうすればいいのだろう。
思わず不安げに東堂を見れば、何故か眉根を寄せて、東堂はこちらを睨んでいた。
以前の巻島であればそんな視線も、自分を独占したいが故だと、心地よくすらあった。
しかしあの夢を見てからは、違う。
ただただ、不安を呼んでしまうだけだ。

「…オレに隠し事か、裕介」
東堂が、醒めた声で名前を呼んだ。

滅多にない本気の怒りか、ここぞという時でないと、東堂は巻島を名前呼びしたりしない。
今、あえて名前を呼びつけたというのは、東堂の中に色々限界が訪れようとしているのだと、告げているのも同じだった。

――どうしよう、別れを口にされてしまう

「と、東堂……」
今まで色々とごめんなさいと、口先ばかりで謝っても、もう遅いだろう。
眉尻を落した自分は、今、とてつもなく情けない顔を晒しているに違いない。
『お願いだから』『別れたくない』
言葉にすれば簡単な一言なのに、巻島はそれが口に出せなかった。

バレンタインに、初めて自分から渡そうとチョコレートまで用意したが、それだって何年も付き合っていて、今更だ。
欲しいとねだられるのが嬉しくて、ずっと仕方がないふりをして、頼まれたから買ってやるのだと、いつも一緒に外に出ていた。
……東堂が望めばチョコレートなんて、自分以外の者から幾らだって手に入るのに。
そんな当たり前の事すら、忘れていた。

震える指先を見られたくなくて、膝の上でぎゅっと握った。

「と、東堂……あの……」
勇気を持って紡いだ巻島の声を、低い声が冷酷に断ち切った。
「……今更、無理だ」

最後通告だった。
覚悟をしていたはずなのに、全身の血が一気に引く思いで、巻島は東堂の言葉を受け止める。
「な、なん……で……」
今更聞くまでもないのに、縋るように呟いてしまうのは、未練でしかない。
頼むから、今からでも東堂の気に入らないところを直すから…そんな惨めな自分は、晒したくない。
自分のわがままで振り回してきた相手から、言われても当然の行いをしてきたと頭では理解していても、巻島は素直に頷けなかった。
「い、嫌ショ! 東堂……何でも……するから…」
考え直してくれないか、と口にするより先に、涙があふれ出た。

情けない、みっともない、見苦しい……東堂は、どんな顔で自分を今眺めているだろう。
まっすぐな視線に貫かれるのが辛くて、顔を背けていたので、巻島は東堂が肩を掴んだと、気づくのが一瞬遅れた。
「痛っ…… 肩…痛ェショ……東堂……」
嘘だ、掴まれている痛みなんてたかが知れている。
本当に辛いのは心だ、東堂が冷たく落す声に、切り裂かれる気持ちですらいるのだから。

「無理だ……!巻ちゃんっ」
「……どうしても……か?」
今までこんな自分につきあってくれていたのだ、東堂だってきっと随分苦悩したに違いない。
最後の最後に、東堂の思いを受け止めて別れるのが、自分にできる最後のことになるだろう。

さあ、心臓に杭を打ち込んでくれ。
――もう、泣きはしないから。

息を深く吸って、目をつぶる。
……オレの心は、一度ここに埋葬されるのだろう、東堂の決別の言葉とともに。
幸せに感謝を、東堂にまだ尽きぬ気持ちを、捨てる覚悟をしなくては。
さあ、言えよ東堂。

東堂が声を発する直前の、小さな呼吸音まで、耳は拾う。
スッという息を吸い込む音の後に続いたのは、憂悶の混じる苦々しい声音だった。

「オレは、オレは絶対に、お前を手放してなんかやらんぞ!巻ちゃんっ」

「……………へ?」

「……え?」
「えぇっ??」
「ま、巻ちゃん??」
苦しさを滲ませた暗鬱な東堂の声に返された、間の抜けた巻島の声。
反射的に背筋を伸ばし、巻島は目を丸く『何を言っている』というように、首を傾げていた。
勢いを削がれ、拍子を崩した東堂が、同じように疑問系で返せば、きょとんとした巻島は呆然と、東堂を見ている。

しばし見詰め合ったと、
「東堂、オレと別れたかったんじゃねえのかヨ…」
「巻ちゃん…別れ話をしようとしたのではないのか」
と二人はほぼ同時に呟いた。

「「なんでだよっ!?!」」
今度の叫びも、重なっていた。
「だって最近の巻ちゃんはおかしかった! いきなりオレの寝顔を見て泣いていた日から、オレ相手に無理な笑顔を作るようになっていただろう!?」
「と、東堂が居心地いい毎日暮らせるよう、オレ笑顔がんばっただけショ!?」
「…巻ちゃん、それは逆効果だ」
ぼそりと指摘され落ち込みかけた巻島だが、東堂はオレの前ではいつも自然な笑顔だったのに、ある日からいきなり作り笑いになれば、おかしいと思うだろうと続けた。
「ショ……」
「それにオレの叱責に、逆らわなくなったじゃないか」
聞き流すようになったのではと言われ、一生懸命東堂の注意を受け入れようと頑張っていた自分が、バカみたいだと、さすがに巻島もむっとした顔を作る。
「ケンカ、したくなかったショ」
「…オレはオレに向かい合ってくれる巻ちゃんが、好きだとずっと言っていたはずだが?」

巻島のほうとて、言い分はある。
「東堂はしょっちゅう 好きだって言ってるショ…オレじゃなくても……好きな相手いっぱい……」
言葉尻がすぼんでいくのは、認めたくなかったからだ。
ファンクラブの女の子、仕事で知り合う女性、東堂の周囲に群がる人間に一流クラスの存在は多い。
自分はそれに負けるとは思わないが、あくまでもイレギュラーな存在だ。
それぞれにどれだけ『好き』をばらまかれているのだろうかと考えれば、胸がつきんと痛む。

「…オレが好きだという言葉を使うのは、巻ちゃんと山頂ぐらいのものだが?」
「嘘いうなッショ! ファンクラブの子とかに、気軽に礼言ってるし、オレと二人で音楽が好きとか、街を歩くのが好きとか気軽に言ってるじゃねえか!?」
何を言っているのだと、咎めるような東堂の目つきに、そんな事はないと巻島は反論をした。

「…オレは俺に好意を寄せてくれる相手に、謝意は伝えるのは当然だ だがそれはあくまで『ありがとう』という言葉のはずだがな、巻ちゃん」
「……そう……だったかァ?」
「その後に続く言葉に対しては、常にオレは『巻ちゃんとオレの二人で』食事が好きだ、音楽を聴くのが好きだ、ともに過ごせるのが好きだと言っている、と反論させてもらおう」
「………えっと………」

そうだったかもしれないと、過去の会話を思い出した巻島はそれでも、残る懸念を伝えずにはいられなかった。
「………東堂は最近、オレに怒らなくなったショ……」
些細なことで自分に腹を立て、イライラする日々に呆れていたのではないか。
見捨てられるのではと不安になったのは、そのせいでもあった。
だから自分ばかり責められるのは割に合わない。
巻島の不安を、言語道断だとばかりに睨む東堂に、理不尽さを訴える。

そんな巻島の表情を見た東堂は、かすかに口角を上げて、「すまんね」と悪びれない。
それどころかその表情は、少し嬉しそうですらあった。

「だって巻ちゃんはオレの怒った顔が好きだと解ってしまったからな 怒らせようと行動するのを見れば…可愛らしく思うだけでとても怒れんよ」

東堂の言葉を、脳内で反復させた巻島は、徐々に頬に血を上らせていく。
紅潮した顔で
「な、何言ってるショ!?」
などと叫んでも、それは東堂にとって愛らしいばかりでしかなかった。

「なかなか気づいて上げられなくて、すまなかったな巻ちゃん 酔った振りして帰ってきたとき、あんなに期待に満ちた顔でオレを見ていたのは……」
声を潜めた東堂が、巻島の耳朶近くに唇を寄せ、媚薬を流し込むように低く囁く。
「…オレにお仕置きされたかったから、なんだよな」

ふわふわと潤んだ目で、罪悪感がなくオレにしだれかかっていたのを、単には酔っていたからだと思っていたけど…巻ちゃんはオレに冷たい目で見られるのを、ゾクゾク楽しんでいたんだ。
そう指摘する東堂は、舌なめずりをするみたいに、色気を含ませた声で巻島に言い捨てる。
「…メスの顔してさ」
「ふぁっ……あ…ち、ちが……」
羞恥心と、耳元にかかる息のくすぐったさで身を竦ませる巻島に、東堂は意地悪く、違わないと笑う。

「虫刺されをキスマークみたいに振舞っている時なんて……可愛くてしょうがなかった」
見抜かれていたと、指摘された巻島は、もう恥ずかしさで顔を上げることすらできなかった。
プルプルと震え、先ほどまでとは違う涙がこぼれないようにするのが精一杯で、安堵とも緊張とも取れる気持ちに支配されている。

「だから、巻ちゃん…オレはお前を離してはやれんよ」
「……ショ……」
「……言葉が足りずにこんな酷い勘違いをしていたんだ、巻ちゃん …たまには巻ちゃんからも言葉を聞きたい」

巻島の指先を掬った東堂が、その淡い珊瑚色した美しい爪に、そっと唇を落した。
自分を睨むような、なじるみたいな男らしい東堂の顔も好きだけれど……、甘い顔だって好きだと巻島は思う。
それでも言葉に出来なくて、隠しておいたチョコレートをそっと差し出し、ぶっきらぼうに
「やるショ ……オレが、こんなん用意してるってだけで……お前なら……その、解ってくれるショ…?」
とだけ巻島が言えば、そこには、嬉しさと歓びを隠し切れず、頬を赤らめている東堂がいた。

『好き』のたった二文字が言えずに、言い訳ばかりをしてしまう自分だが、それでも東堂が笑って、目の前にいてくれる。
そんな日常的な光景に、巻島は幸福の意味を改めて味わい、東堂を好きだと思っていた。