【東巻】魔法の言葉


最近の巻ちゃんは、可愛くなった。
これは断じてオレのひいき目でも、独断でも思い込みでもない証拠に、レース前に巻ちゃんに声をかける奴が、以前の数倍になっていることでも証明されている。
俺と知り合った頃の巻ちゃんは、ぽつんと孤高の存在的に、髪の色から目立ち、独特の走りから敬遠され、遠巻きに名前を噂されても、声をかける奴なんていなかった。

そんな巻ちゃんに、オレは「巻ちゃん」と特別な呼び方で声をかけ、笑顔を教え、話しかければ普通に応対するのだと、周囲にさりげなく知らせていたつもりだったが…。
どうやらその効果は、ありすぎたようだ。
オレが目を離していれば、最近の巻ちゃんは誰かに自然と呼び止められている。
巻ちゃんはまったく自覚がないが、あの独特の走りはやはりいろんな批判があっても「スゲェ」に尽きるのだろう。
転ばないだけでなく、毎回アレで山神の異名を持つ俺と競えるのが、不思議で仕方がないようだ。
それはそうだろう、オレだって、最初は信じられなかったのだから。

「巻島のバランスどうなってんの?」「今度俺らとも競ってくれよ」「次どの大会出る?」
――うるさい、うるさいうるさい
それは全部、オレが巻ちゃんに語るべき台詞だ、何故お前たちが尋ねている。

それでもまだ巻ちゃんには一部、人見知りが残っているようだ。
オレの姿を視覚の隅に捉えると、ほっとした様子で、無意識に助けを求めるような視線をよこす。
その縋るような表情がたまらなくて、優越感を持って
「巻ちゃん、待ち合わせの時間だぞ!」と言えば、巻ちゃんは相手に小さく頭を下げて、こちらに走ってくる。
「ありがとな」
とぽそり呟くその顔は、オレに嘘をつかせたという罪悪感だろう。
待ち合わせなんて、当然していない。

今日のレースはさんざんで、オレが一位を独走したのだけれど、巻ちゃんは二位三位の順をめぐって、オレの知らぬ奴といいタイムアタックをしたらしい。
名前も知らぬそいつが、振り返ったとき巻ちゃんと並んで互いに楽しそうにしていたのが、オレにはとても不快だった。

「……という訳なんだが、どう思う」
部長たる福富の部屋で、練習メニューの組み立てなどが一段落し、荒北がベプシを取り出し、新開がパワーバーを開ければ、何とはなしに雑談が始まる。
部屋の主は、マメにも自分でコピーをしてくると、寮内の印刷室に出向いており不在だ。
一人に責任を押し付けるつもりはないので、荒北が付いていこうとしたが、部員程度の枚数で二人も行くことはないと、待機している。

「そりゃあ裕介君が、普通にかわいくなったって事じゃないか」
おのれ新開、ウィンクで不吉な事を抜かすんじゃない。
自分で言い出しておきながら、おそらく予測していたであろう回答をしてきた新開を、東堂は不穏に睨む。

「可愛いっつーのは違うだろうけどよ なんつーか会うたびに印象が柔らかくなってる気がするよな」
続けたのは意外にも、荒北だった。

初めて巻島を見かけたときは、警戒色と呼びたい髪にふさわしい表情で、東堂を介して紹介されても困り気味に下がった眉も、言葉使いもただただ、
近寄らないでくれとオーラを発していた。
東堂の怒涛の押し技に巻島が流され、数ヶ月。
他人のやり取りなんざ知るかという、男同士の友情レベルで判断しても、あからさまにアウトなさまざまな出来事を、巻島は許容しているらしい。
「キモっ…」
なにかのっかけで、東堂の送信履歴を見る破目になった時、冗談交じりに覗いてきた新開ですら無言だった。
血色の良い顔が、普通の肌色にっていたのは、新開なりに血の気が引いていたのだろう。
きっちり8分毎の、リダイヤル。
荒北と新開は無言で目を合わせ頷き、東堂の携帯を閉じた。
見なかったことにはしたのだが、それ以来、巻島という存在について気にはなっている。

インハイほどではなくとも、大規模なレースでは総北とぶつかることも、少なくない。
普段はきっちりしているくせに、巻島が絡むと行動が逸脱するのが東堂で、そのレース前にも姿が消えていた。

あまりに目に余る行動に、荒北が他校のテントまで捕まえに行ってみれば、随分とくつろいだ様子で、巻島は微笑んでいた。
以前東堂の応援というなの冷やかしで、巻島を見かけたときに知った笑顔とは、えらい違いだ。
多分、本人も無意識なのだろう。
ふわりと流れる髪と、すらりと伸びた白い手足は、表情が付いたことで親しみやすい、それでいて自分たちとはどこが違う人形のような、不思議な魅力を放っていた。

歩いていたものが、足を止めてしばし巻島を眺める。
巻島自身はその髪色のせいで、そういった視線に無頓着になっているのだが、横に立っている専用セコ○東堂が、不躾だとでも言わんがばかりに睨むので、早々に立ち去る。
それでも、自分たちのところにまで「あれがピークスパイダーか」「随分印象違うな」という会話が聞こえてきていた。
それは明らかな、好意的なものだったが、東堂は何故か眉間にシワを刻んでいた。

東堂はまだ自覚をしていなかったらしいのだが、その後になって、巻島に直接声をかけてくる者が増えてきて、焦れたのだろう。
人見知りらしい巻島は、今では荒北や新開たちにも、随分とやわらかく接している。

「女の子はさ、可愛いかわいいって言われ続けると、ほんとにかわいくなるんだって」
ふと思い出したように、新開が東堂へと顔を向けた。
「む…?」
「よく褒められると伸びるとか言うだろ?それと同じじゃないかな ずっと可愛いだとか綺麗だとか言われ続けていたら、相手もその言葉に
ふさわしくなろうと無意識にそうなるんじゃないのか」
「そんな…ものか? オレはイケメンだとかハンサムだとか素敵とか言われ続けていたが、それは当たり前の事であって、何もオレを変えておらんぞ」
「……うっわ ムカつく……」
ぼそりと目を細めた荒北は、多分一般男子高校生大半が、同意する意見だろう。

「ずっと言われ続けているのと、途中から言われるようになるの差じゃないか?…例えば…」
パワーバーを丁度食べ終わったらしい新開が、ベプシの蓋を開け、窓辺に寄りかかる荒北を座ったまま見上げる。
「…靖友、かわいい」
――ブッフォォォォォォォッ

盛大に吹き散らかされた茶色い液体が、床にこぼれた。
フローリングでよかったと、無言で床を吹き始める東堂を尻目に、なぜかいきなり愛の劇場が横で始まった。
「ハッ…ハァ? なに言ってんの!?バッカじゃねェ?」
「そういう照れ隠しな言動も、かわいいな」
心を無にし、ひたすら床の汚れは他にないかと、目を走らせる東堂だが、新開が例のバキュンポーズを決めているのは気配でわかった。
「…っから!かわいいっつーのはアレだよ 小野田チャンとかアキちゃんとか、うちの真波も喋らなかったら…!」
「靖友は、喋ってもかわいいよ」
「ッセ! 手前ェ、もう黙れ!」
一口飲む前に、随分中身が減ったペットボトルを掲げた荒北に、新開はようやく口を噤むが、視線はまだ荒北に固定されたままだ。

まかり間違っても、コイツを可愛いとは思えんが、――なるほど、巻ちゃんに同じ事をやり続けていたような自覚はある。
ただし巻ちゃんは本当にかわいく、魅力的なのだから仕方がないし、荒北の反応が、普段と少し違うのも事実だ、と東堂は記憶を辿る。
つまり巻島は、自分は可愛いだの素晴らしいと褒め称えたせいで、ああも無防備に蠱惑をかもすようになってしまったのか!

巻ちゃんは、獲物を待ち構える蜘蛛の擬態をとりながら、中身がぽわぽわの世間知らずだ。
多分、公共機関で長距離移動をしようとしたら、まったく目的と違う場所に辿り着くだろうというほどに。
千葉の人間でありながら、東京駅の京葉線ホームと山手線ホームは2分もあれば移動できると思っていたり、西武新宿線の新宿駅と、
都営線新宿駅は繋がっているものだと思っている。
ちなみに、余談ではあるが、都営大江戸線であるならば、新宿西口駅の方が断然新宿駅より近い。

東堂達とて寮生活で、移動は基本自転車であるが、これら事情は首都圏近くに住んでいれば、常識だろう。
その常識が、通用しないのが巻島だった。
ならば自分が、巻島を世間並みに人と交われるようになどとの思い上がりが、今の事態を招いてしまったのか。

両拳を床につけ、考え事を始めた東堂に、新開と荒北もようやく様子が変だと気づいたらしい。
「おい、東堂?」
「なるほど……理解した オレが……巻ちゃんに……冷たくすればいいのか……」

――何故、そうなる。
普通であれば、その可愛さをどうカバーするかという話になるはずだ。
だが東堂の脳内では、褒めて可愛くなった→打ち消すには冷たくすればよいという展開になったらしい。

「だが!オレは!!巻ちゃんに冷たくするなどできんよォォォォォォ」
叫びながら、東堂が部屋を飛び出し、残されたのは彼の携帯だった。

「……どうする、これ巻チャンに伝えとく?」
「なんて? うちの尽八が裕介君が可愛くなったのに危機感を覚えて、これから裕介君に冷たくしなければと思ったらしいけどできないって部屋飛び出してった…?」
「…言われても、困るな」
「オレなら困る」
とりあえず、触らぬ山神に祟りなし、しばらく放置しておこうという方向で、互いに頷きあい、新開はパワーバーを新しく出し、荒北はベプシを口に含んだ。

**
「巻ちゃん、ここにいたのか」
東堂は毎回、巻島のレース出場を確認し、事情があって参加をしない時はそう伝えてくる。
今回はそれがなかったので、別に待ち合わせをしている訳ではないが、来るだろうと巻島は、今から来る参加者が見つけやすいだろう場所に立ち尽くしていた。
無論その場所は東堂だけでなく、他のものにも目が付く場所だ。

「よ!巻島!」
このレースで知り合いはいないはずだがと、少し首をかしげ振り返った巻島の前にいたのは、前回のレースで自分と二位争いをした選手だった。
大体1:1のひと目の付かない場所での競り合いになると、挑発やら口悪い罵りやらが珍しくない。
だがこの男は、率直に巻島の独特な走りを讃え、気持ちよく会話ができた稀有な相手で、記憶にも残っていた。
「えっと……本橋…?」
「お、山頂の蜘蛛に名前を覚えていただけ、光栄!」
にかっと笑う笑顔は、随分と細身であるが開放的で、どことなく田所を連想させた。
もっとも、顔面偏差値的にはこちらの方が……、随分高いようだ。
ただし巻島にとって、田所の顔面をどうこういうような相手は、田所にふさわしくないと思っているので、もちろん総合得点は断然田所の方が上である。

それでも、巻島にとっては随分話しやすそうな雰囲気を持っていた。
…実は巻島自身が、結構な面食いであるのだが、自覚はない。
やっかいなことに、かなりのレベルになるであろう金城を『平均的なよくある日本人の顔』などと、認識しているのだから、相当なものだ。
つまり、相手の男は平均的に見て、イケメンであるということだ。

「前回は東堂に結構な差をつけられたが、巻島とはそれなりに張り合えたからな、今日は負けないぜ」
「オ…」
「巻ちゃん」
オレだって、とつなげるより先に、二人の間に割り入ったのは、いつのまにか姿を現した東堂だった。

「ほら、場所を取ってあるんだから行こう さすがにこれ以上時間がたつと、移動が困難だ」
レース開始線のすぐ後ろに、スポーツバッグが置いてある。
青と白が基調のそのカバンは、紅いラインが入っており、箱学のものだと遠めにもわかった。
東堂はシード選手枠ということで、中央に近い場所に大会側がスタート地点を用意してくれていたのだろう。
巻島はその東堂に勝った事があるとはいえ、まだ無名であるので、東堂がごり押しで、二台分を確保したのかもしれない。

たしかにこれ以上込み合えば、あそこまで自転車を引いて進むのは、難しい。
だがせっかく声をかけてきた相手に、すげなくするのもと迷っているのを、本橋は察したのだろう。
「スタート地点は離れているけど、おいつくぜ」と笑って、巻島が離れやすいように促した。
こいついい奴だな、と巻島の唇が自然と綻ぶのと反比例して、東堂の口元は硬く結ばれていた。

「…東堂?」
スタート地点に並んでも、東堂は前を見据えたまま、むすりとしている。
いつもであれば天気がいいなだとか、今日の登りの斜度はだとか、…自分の髪が日に映えて綺麗だとか、とりとめなく話しかけてくるというのに。
スタート場所を確保してくれている、礼が遅くなったことで機嫌を損ねたのだろうか。
だがそれは、いつものことで、東堂はたいてい
「オレが巻ちゃんと気持ちよく走るためだからな!気にせんでくれ」と返すのだ。
だから今更、そんなことで様子が変わるはずもない。

一を告げれば、十を返してくる東堂が無言でいると、どうも居心地が悪い。
だがわざわざ約束をしたのでもないのに、スタート地点を確保してくれているという事は、口も聞きたくないほど嫌われているわけではないのだろう。
レース前で集中をしたいのだろうかと、巻島は少ししょぼんと、話かけようとした手を下ろした。

レース中も、東堂は寡黙だった。
前回の三位…本橋に追いつかせてなるものかとばかり、意図的に大きく集団から距離を開けて、二人して山頂を目指す。
東堂が自分を引く形になるので、なんだか不公平な気もしたが、まだこんな序盤ではたいしたハンデにもならない、邪魔が来ないレースを楽しみたいのだと、東堂は告げた。
いつもならはしゃいで、序盤のうちはこれでもかとばかりに、自分自慢を混ぜて語る東堂が、口少ない。
「…巻ちゃんは、油断が多いな」
「…は?」
「オレ以外にも、ああも……無防備な笑顔を見せているのか」
――何を言われているのだろうと、巻島は少し目を細めて、東堂を後ろから見遣る。
その背中は、問いかけではなく、まるで巻島への断罪のように、こちらを拒絶していた。

――何を、怒らせてしまったのだろうか。

巻島を牽引したというのに、今日のレースも東堂が勝利した。
……そして東堂は勝ち誇る様子もなく、相変わらず無言だ。
東堂は怒っているのではないと言っていた、…そうであれば……。

考えたくない想像が、胸をさいなむ。
だが、消去法で数え上げていくならば、もうこれしか残らなかった。
…東堂尽八は、自分をもうライバルとして、価値がないものと判断したのだ。
前回のレースで負けた上、今日のレースでは東堂にリードを頼った挙句、負けた。
あれは最後のチャンスだったのかもしれない、東堂は自分を試し、それで……自分は価値ない者の、烙印が押されたのだろう。

「東堂……あの……オレ帰るっショ……」
いつもであれば、レース後も食事をしていこうだとか、次のこのレースへのエントリーはどうするだとか、そんなやり取りで、気づけば時刻は過ぎている。
だが今日は、東堂はレース中と変わらぬ様子で、黙したままで、ともにいる空間を重く感じる。
「…待ってくれ!」

ぺこりと頭を他人行儀に下げて、立ち去りかけた巻島の二の腕を、東堂が慌てて取った。
「…巻ちゃん、もう帰ってしまうのか?」
レース後一緒に居るのは、約束をしていたわけではない、特に決めているルールでもない。
巻島が帰るといえば、東堂には引き止める権利などないのだが、反射的ににその腕を東堂は掴んでいた。

東堂の目はどこか、縋るようだ。
自分を厭うたわけではないのだろうかと、巻島もついその歩みを止めた。
「……東堂、オレが……」
ここにいても良いのかと、尋ねたいがその返答が怖くて、巻島は開きかけた唇を噤んだ。
それでも東堂は、巻島が足をとめたことが嬉しいみたいに、ようやく華やかな笑顔を見せた。
「まだ時間は大丈夫なのだろう?」
「ああ…別に予定はないショ」

――だけど、お前はオレと一緒にいるのが飽きたんじゃないのか?

聞いてみたいけれど、自分からそんなトドメを刺されるのを待つほど、巻島は嗜虐的ではなかった。
「少し、休まんか」
東堂が指で示したのは、涼しそうな木陰だった。
青草が邪魔にならぬ程度に浅く茂り、道路から少し離れているせいか人目にもつかない。
レース後のクールダウンにも、丁度良いだろう。
返事の変わりに黙って頷けば、東堂は安心したように、やっと掴んでいた腕を離した。
「巻ちゃんに連勝して気分がいいかなら、今日はオレが奢ってやろう」と東堂は自販に歩いていく。
つい咄嗟に、遠ざかっていくのが置いていかれた心持になって、東堂の背中を掴んでしまった。
「……巻ちゃん?」
「あの、えと……」
思わず伸ばした腕だったので、問いかけるように見られると、言葉に詰まる。
「……スポドリじゃなくて、今日はお茶が飲みたいショォ」
しばし探るような顔をしていた東堂だが、わかったとにっこり笑い、また自動販売機へと歩みを進めた。

何をしてしまったのか。
理由が思い当たらない咄嗟の行動に、巻島は脱力し、木にもたれかかった。
さやさやと揺れる梢の葉々の音が、心地よい。
前ジッパーを下ろし、服の弛みをもたらせば、開放感が訪れる。
吹き抜ける風も、少し汗ばんだ首筋や胸元を乾かしてくれて、気持ちが良かった。

だが……今こうしていられるのは、東堂の行動ゆえだ。
レース終わった直後であれば、なにか心に重たいものを抱えたままの帰宅だっただろう。

安堵した心持での待ち人は、少し心が高揚する感じがする。
安心感と気持ちよい風に誘われて、巻島は軽く目を閉じた。
……東堂が戻ってきたら、起こしてくれる、だろう……目蓋越しの日差しを感じながら、巻島はうたた寝に陥った。

首筋に、何かが触れた。
少しくすぐったいような、むず痒いようなそれは、ゆっくりと巻島のやわい皮膚をなぞる。
浅い眠りから、ゆっくり浮上する感覚を覚え、巻島は「ん……」と無意識に呟いた。
ほんの一瞬、その声が怖いみたいに何かは離れたが、巻島が目を覚まさないのを確認したのだろう。

またゆっくりと、同じ箇所に巻島は同じ感触を覚えた。
いや、違う。
先ほどはどこか皮膚が擦れる心持がしたが、今はぬめった感じと先ほどより高まっている熱。
これは、ヤケドしそうな熱さは、粘膜の接触だとうっすら目蓋を持ち上げれば、巻島の肌蹴た前部分に、何者かが唇を乗せていた。

ぼんやりと、それが何であるかわかった巻島は、まだ目覚めぬ頭で
「東堂……?」と名前を呼ぶ。
返答は、ない。
だがその代わりだとばかりに、巻島の首と肩の境界にあたるだろう部分に、鋭い痛みが走った。
「えっ……痛っ……!」
木の幹によりかかっていた体を思わず起こし、引き剥がそうとすればその痛みの部分を拭うよう、また舐められた。

東堂は、巻島のむき出しの肌に噛み付き、今度は巻島の言葉を遮るように、癒すために舌を走らせている。
……何を、されているのだろう。
まだ夢を見ているのだろうかと、巻島がもう一度東堂の名前を呼ぶため、唇を開きかけた。
だがそれは、音となる前に東堂の強引な口接けで、奪われてしまった。

軽く啄ばむようなキスが、いつしか深いものへと変わる。
「んっ……ん……」
隙間から舌がねじ込まれ、何か話そうとすれば舌は絡め取られ、息ができない。
苦しさを訴えようとしても、喉から紡がれるのはまるで喘ぎでしかない、甘い吐息だ。
声が出せぬのならば、視線で訴えようと、東堂の目を見詰める。

――だめだ、これは征服をする獰猛なオスの目だ。

自分の咎める眼差しも、東堂の興奮を煽るものにしかならないと巻島は悟った。
ぴちゃぴちゃと、淫らな水音が耳を刺激する。
力の抜けた腕先で、窒息しそうだと、東堂の背中を何度も叩けば、ようやく東堂の唇は離れていった。

ハァ、ハァッ…と荒い息は、自分から洩れているものだろうか。
生理現象で滲んだ涙を見られたくなくて、顔を背ける前に、東堂の鍛錬で固くなった指が巻島の目元を拭う。
「…巻ちゃん」
耳朶近くで囁かれる声は、見えない何かにくすぐられたようで、巻島の背筋をびくりと震わせた。

「お前、お前今日はおかしいショォ……」
親指の付け根、母子球のあたりでこぼれそうになっていた唾液を拭い、巻島は途方にくれた目をしている。
「巻ちゃん……オレは、自分のあやまちを知ったよ」
「…あやまち?」
両腕を木の幹につけた東堂が、わずかに身を乗り出せばそれだけで、密着してしまう距離。

「巻ちゃんは……随分と、素敵になった」
「は?」
「笑顔は可愛くなったし、溢れる色気はそこに存在するだけで罪なほどだ」
「と、東堂ぉ?」
間の抜けた返事ばかりだと思うが、巻島にとって禅問答を仕掛けられているように、まるで訳がわからない。

「だからオレは巻ちゃんを、元の姿に戻そうと企んでいたのだが……」
言葉を一度区切った東堂が、及び腰に少しでも距離を開けようと、後ずさる巻島の顎を掴んだ。
「戻っても元々魅力的な巻ちゃんが、こうも人前で無防備になるのでは意味がない……だから」

――オレが監視するしか、あるまい?

耳たぶに息を吹き込み、遊ぶみたいに東堂は低い声で、巻島へと宣告をした。
水に浸された紙が、じわじわと水分を吸収するように、東堂の囁きはゆっくりと巻島を蝕んでいく。

「もっともっと綺麗になっても大丈夫だよ、巻ちゃん」
たった今まで見せていた、翳りのある表情を消して、東堂は口端を上げた。
なんだ、性質の悪い冗談だったのかと、安堵した巻島は力を抜いて、くたりと後ろへ凭れこんだ。

「ああ、巻ちゃん……可愛いな …本当に…カワイイ」

東堂の言葉に含まれた甘い毒を、巻島はまだ知らない。