【東巻】喪失したものは




――ああ、まただ。
ほんの少しタオルを取りにいった間に、屈託のない東堂の笑顔は、彼女を魅了してしまっている。
それは仕方がないことだと、寂しく思いながら、巻島はどう別れを告げられるかを、脳内でもうシミュレーション始めていた。

巻島は基本的に人見知りがあり、男女を問わずあまりしゃべることがない。
奇抜な髪色や、のっそりとした動きは、自分に関わらないでくれとの威嚇色で、そして自分から他人に関わることはない。
だけどそれを乗り越えて知り合えば、むしろ臆病で人見知りなだけで、不器用な優しさを持った人間だと、わかる。
今周囲にいるのは、それらを知って関わってくる、面倒見の良い、優しさを持った者達ばかりで、巻島にとって大事な人ばかりだった。

自分から関わるということはなくても、学生生活というしばりがある上で、巻島とてさまざまな役割分担を免れえない。
すなわち、委員会や行事などでの役員といった仕事だ。
いろいろと面倒は避けたくても、これすら逃げてしまっては、もっと面倒があると巻島は、色々な仕事を無言で、
最善を尽くすようにひっそり手配をすれば、それを評価してくれる人は一定数いた。
そうなると、巻島について興味を持つ者もいて、物好きにもクライムレースを見学に来たり、巻島について知りたがったりをする。

巻島の中身を知って興味を持ってみれば、自分でキモいと言っている顔は、よくみれば造作は悪くない。
たんに表情を作るのが苦手なのだと、しげしげ見つめていると、頬を紅く目線を逸らされ、なんだか可愛くもあった。
ついでに…あくまでついでにだが、お金持ちだというスペック付。
巻島にこっそり告白をしてきて、お付き合いをはじめた相手は、3人目だった。

短い高校生活の中で、3人の彼女と付き合うというのは、数が多いほうに入るだろう。
だがそれは、その分巻島の彼女との仲が、相当短かったのだという答えに直結していた。

「……またお前のせいで、フラれるっショ」
巻島に気づいた彼女が、東堂に見惚れていた視線を隠さないまま振り返り、慌てて帰っていく。
隠せなかった好意を自覚して、すみやかに去っていく相手。
だからこそ、巻島も好きになりかけていたのだが、だからといってこれでお別れは少し切ないなと、思わざるをえない。

ほんの少し、恨みがましく隣を見れば、爽やかにボトルを傾ける東堂は、上機嫌だ。
東堂は時折、ボトルを口から離して液体を落とすよう注ぎ、口中に入れる。
ずれて、口元から溢れた液体が滴となって伝うのが、健康的でありながらも色気があって、巻島の目線を奪った。
「色々研究したのだが オレはこの飲み方をしてもキマるのだよ!まったく美形は恐ろしいな」
と言ってきたときは、アホかと呆れたが、陽の光の下の東堂は、確かにカッコよかった。

……悔しい。
かっこいい、キマっていると認めるのは、まあ仕方がない。事実だ。
だがこのアホのせいで、自分の彼女は『本当の気持ち』とやらに気づいて、また巻島はまたフラれるのだ。
しかも今日のレースは、僅差で負けた。

巻島に気づいた東堂が、全力の笑顔で手を振ってくるのが、余計に心を曇らせる。
少しばかり恨み言を伝えても、オレだって悪くないはずだと顔を背けて立っていれば、東堂のほうから近寄ってきた。
「どうした、巻ちゃん オレに負けたからと言ってそんなしょんぼり顔は可愛すぎるぞ」
「……お前の日本語、古臭い上に崩壊してっぞ …意味わかんねえ」
「ハハハハッそうか、わからんか!」

…むかつき、倍増。
こいつは悪くない、悪くないけど一言いわせろ。
「東堂 お前のせいショ」
「む…オレ? オレが巻ちゃんにそんな寂しそうな顔をさせてしまったのかね、すまんな しかしオレという存在は、巻ちゃんの中でそんなにも大きいのだな!」

――何でコイツは、こうもポジティブなんだよ。詫びてるのか嬉しいのか、絡みたいのかどれなんだ。
「……ちげーよ ……お前、無意識に人の彼女誘惑するのやめろヨ」
ぼそりともれてしまった言葉は、ストレートすぎた。
軽く目を瞠った東堂に、コイツは悪くないのにと、巻島は内心落ち込んだ。

「……巻ちゃん……」
「あ、いや悪ィ……お前のせいじゃなくて……その……」
こんなのは、タダの八つ当たりだ。自分が情けなくて、眩しい東堂の前にいるのがイヤになる。

「違うぞ」
「だよな、うん…お前が誘惑とか そんな必要ねえし その、オレの僻みっていうか…クソッみっともねえ…」
うつむきかけた巻島の顔を、東堂が硬い掌で両頬を掴み、上げさせる。
「違うのはソコじゃない」
「へ?」
「無意識にじゃない」
「………えっ……と?」
「オレはわざと巻ちゃんの彼女に優しい言葉をかけて、笑顔を向けてたんだよ …やっと気づいてくれたかと思ったんだが」

苦笑するような、それでいてすっきりしたみたいな東堂の、複雑な口端を上げた顔。
それは、巻島の知らない東堂の表情だった。
「…わざ、と?…なん…で…」
呆然と子供みたいに繰り返してしまう口調は、巻島の混乱を如実に示していた。
「だって巻ちゃんにはオレがいるし」
「………えっと……?……帰る………」

考えることを放棄した巻島が、背を向けようとしたら、手首を強くつかまれた。
その勢いで、東堂に凭れるようになってしまい、はたから見れば抱きしめられているみたいだ。
「逃がさんよ」
「ちょっ……東堂、お前……変だぞ…人も見てるし…離せ」
「巻ちゃんにはオレががいれば充分だろう? だからいらない存在の意識をオレに向けさせただけだ」
東堂は耳朶近く、はっきりと、巻島から彼女を奪うため意図的だったのだと告げた。

「……あの、やっぱ………意味わかんねえ……」
脳内が真っ白になった巻島が、なんとか言葉をつむぐと、微笑む気配がした。
「教えてやるぞ これから…ゆっくりと」

まばゆい太陽の下、レース後の気持ちよい時間に、自分は何をして…されているのだろう。
彼女との別れは、多分明日。
だがその前に、自分が大幅に変えられてしまいそうで、まわりの光景が見えなくなるほどの衝撃を覚えた巻島は、唖然とするしかなかった。

巻島の向きを変えさせ、正面に東堂はいる。
そのきりあがった眼差しは、レース前しか見せなかったのにと、自失している巻島はぼんやりと見つめていた。