【東巻】熱と冷酷


この一年、巻島裕介は今まで知らなかった感情に、振り回されていた。
前半分の半年は、柔らかな温かさと優しさ、そしてその気持ちが叶うことはない、苦しさに満ちていた。
半年目に耐えられなくなって、もう二度と会えなくなっても仕方がない覚悟で、東堂に告白をした。

いっそ一生の記憶に残る想い出にしてやろうと、満開の桜が美しい山頂で「好きだ」と告げる。
饒舌な東堂が黙り込んで、見開いた目で硬直しているのを見て、後悔と同時に、すっきりした気持ちになった。
――ああこれで、もうレースで一緒になっても、声をかけられることもなくなるだろう。
そしてそのたびに感じる、切なさも振り回されるような高鳴りとも、もう関わりを持たずにすむのだ。

東堂が思いやりから言葉を選んでいるだろううちに、姿を消そうと巻島がきびすを返したところで、
「…オレ…も……」と呆然とした声が聞こえた。

信じられないみたいに、恐る恐る東堂が手を伸ばす。
鋭利な眦は、まるで獲物を追う獣みたいなのに、その指先は小さく震えていた。

巻島はその日、今までの人生で、一番の幸せをもらった。

その後の三ヶ月は、ただただ喜びに満ちていた。
東堂が笑いかけてくる嬉しさ、共に競い合える愉しさ、ふと沈黙が訪れた瞬間に重なった唇は、乾いていたのを覚えている。
胸が苦しくなって、涙ぐめば目の前の東堂は、愛おしさに満ちた顔で、目尻を拭ってくれた。
思いを告げる前が、一番東堂を好きだろうと思っていたのに、今はもっと好きだと言ったら、東堂も俺もだと返す。
胸が高鳴りすぎるから、やめてくれと言ったら、「可愛いな」と抱きつかれ、はじめて舌を絡ませるキスをされた。

だけど。
この三ヶ月は、その僥倖に浸るだけの日々に、少しの不安が訪れていた。

東堂は二人きりになると、まるで餓えたように巻島の唇を貪る。
日頃はうるさいぐらいの東堂が、寡黙になればそれは巻島を求めている証拠で、要注意だった。
そう思われるのは悦ばしいと思う。
だけど東堂の輝かしい経歴に、傷は残したくなくて、街中などで東堂が黙り込めば、巻島は無意識に人の来ない場所を探すようになった。
人前だと巻島が嫌がるのを察した東堂は、二人きりになるやいなや、巻島を壁に叩きつける勢いで、腕の中に拘束をする。
苦しいけれど、その熱が嬉しくてゆっくり顔を上げれば、東堂は待ち構えていたように、巻島に口接けた。
くちゅくちゅとイヤらしい水音が、静かな路地裏で響き、粘膜を舐め取られれば、膝から力が抜ける。

「んっ…」と、鼻にかかる声とも息ともつかぬ音を洩らし、東堂にすがるようになれば、強く抱きしめられた。

――なのに、それ以上のことはしてこないのだ。
街中だからという、理由ではない。
東堂が自室を訪れた際に、今日は家族が誰もいないのだと告げた、巻島の精一杯の勇気すら、スルーをされた。
ものすごい早さで、高鳴る動悸のせいで、巻島は泣きそうにしょげかえった。

あんなに食い入るような目つきで、見るくせに。
好きだといって、口腔を余すことなく啜るように舐め取るくせに。
…やはり、東堂は男の自分など愛せないのだろうか。

キスまでなら、相手が男だって女だって代わりはないだろう。
だけど、それ以上に進むとなれば違う。
普通の男が望むであろう、柔らかなふくらみも、まろみを帯びた滑らかな曲線も、巻島は持ち合わせていないのだ。
自分の細長い体を、これほど悲しく思ったことはなかった。

東堂は男の自分相手に、勃たないだろうとの危惧で、触れてこないに違いない。
それは仕方がないことだろ思う。
なのに自分は、東堂の鼻筋の通った、整えられた顔立ちも、光に潤ったような上機嫌な瞳も、どれも離れがたくて、別れを告げてあげられずにいる。

(…だったら、東堂にオレを感じさせなければいいっショ)
目を瞑ってもらい、口で東堂を慰めれば、それは女と同じ快楽を与えられるはずだ。
ベッドの上でだって、自分に触れさせず、肉の窄まりで東堂を食らえば、柔らかみのない肢体だって、愉悦を得られるだろう。

それは素晴らしく、官能的な思いつきで、巻島は眩暈を起こしそうだった。

ただ悲しいことに、巻島は東堂をリードできるだけの自信はなかった。
いつかの覚悟をと、男同士の性描写に関する本や動画を探してみても、色気を感じるよりも『無理だ』との気持ちが強かった。
それでも東堂相手ならば、触れてみたい。
まだあいつの気持ちが自分に向いているうちに、思い出が欲しいと思うだけで、巻島の目の縁には涙が滲んだ。

ならば、学べばいい。
男同士のための、出会い掲示板なるものが存在するということも、巻島はこの前知った。
そこに並んでいるのは『当方タチ専 横浜近辺でである方 俳優の○○に似ているといわれます』
『優しいオジ様求めてます ジャ○ーズのMに似てるって言われます まずはお話から』といった羅列だが、中にはもっとあけすけなものが幾つもあった。 

何を書けばいいのか、パソコンの前で文字を一つ一つ選ぶ。
頬から顎に、汗が一筋たどった。
『男同士のことを何もわかっていません どなたか実地で教えて下さい M 17歳』
フリーメールで取得したメールアドレスを載せれば、いくつか反応があった。

羞恥に揺れるだろう心持も、後悔が残るかもしれない経験も、東堂と触れ合えるのならばと思えば、陶酔感で帳消しにされる。
もらったうちのメールの一通は、年が近いようで、関東住まいと条件がいいようだ。
しかもそれが、掲示板に書き込みをしてからの一番の連絡だったので、巻島はその相手に決めた。

互いに名前を告げなくても、この髪では記憶に残ってしまうだろうと、短めのフルウィッグを購入した。
そう簡単に外れないとのそれは、安くはなかった。
だが必要な品物で、届けられた時に東堂がいたのは誤算だったが、何とかごまかした。
「たまに、気分転換したくなるっショ」
「ふぅん…そんなものかね しかしオレは、巻ちゃんのその綺麗な髪はそのままがいいな!」
「クハッ調子いいっショ 初めて会ったときは玉虫とか言ってきたくせに」
「知らんのかね巻ちゃん 玉虫は国宝に指定される厨子があるほど、美しい虫だぞ」

そういって、「こんなものはいらんだろう」と捨てようとするのを、慌ててとどめると、東堂は眉を寄せた。

掲示板の男は、変にいやらしい言葉も、性的な何かを匂わせることがないのが、救いだった。
淡々と落ち合う場所や予定だけを連絡し、待ち合わせのためのアイテムを互いに決める。
相手は、ジーンズ生地の濃紺アポロキャップを被っているとあったので、自分は気に入りのブランドの、ダガーをモチーフにしたペンダントを付けていくと伝えた。

即物的だが、待ち合わせはラブホテルが間近い駅の、とある電話ボックスの前と決めた。
改札は込み合っているが、そちらの出入り口は、あまりひと目に立ちたくない人間達が、多く通る場所だけに、静かな場所だ。
夕飯を取るでもなく、出遭ってすぐホテルへ訪れるだろう、即物的な待ち合わせに、巻島はどうしようもない自分にようやく気が付いた。

「なあ巻ちゃん、今週末 遊びに行っても構わんかね?」
東堂が指定してきた日は、カレンダーに青く丸をした日だ。
「…その日は…先約がある…から…」
「…そうか、残念だ 今からでもその予定は変えられんのかね」
「無理言うなっショ」
東堂の名残惜しそうな声に、胃の辺りが焼け付くようだ。
何をしでかそうとしているのか、気づかれてはならないと、喉から出た巻島の声は、ひび割れていた。

日頃の自分から、少しでも遠くなるように。
髪は編んでから結い上げ、短い濃茶色のフルウィッグを被る。
コンシーラーで、ホクロを消さないように塗りこめてみるのも、夜間ならば不自然には思われないだろう。
服装は、なるべく簡素かつシンプルなものを選べば、体にフィットした、黒い襟元の大きく開いたシャツになった。
相手はYと名乗ったので、自分はSだと告げた。
巻島の「MAKISHIMA」の一部ではなく、単に自分の異名のスパイダーから思いついた、アルファベットだった。

もう日が暮れている時間だが、繁華街はこれからが賑わいを見せるだろうという、中途半端な夜の入口に、巻島は待ち合わせ場所にたどり着いた。
深く帽子を被った男は、何かを考え込むかのように俯いていて、少し声をかけにくかった。
だが遅くに来たものが、呼びかけをするのは礼儀だろうと、電話ボックス近くに歩みを寄せた巻島は、小さく息を呑んだ。

その端整とれた体は、自分の記憶にある、大事な相手とまったく同じ肉付きをしていたからだ。
「え……」
思わず、といった風情で洩らした巻島の言葉に、男は険しい顔つきを上げた。

「……来て欲しくなかったぞ、巻ちゃん」

頬を引きつらせた巻島は、麻痺してしまったみたいに、動けずにいる。
帽子を外した男は、くぐもった声で「信じたくなかった」と呟いていた。
よく知っている風貌なのに、カチューシャがないだけで、こんなにも印象が代わるのだろうかと、張り詰めた空気の中、巻島は思った。

「オレと別れたくて、こんな暴挙に出たのか?」
巻島が初めて聞く、冷たい声だった。
東堂は出会いから、今に至るまで、好きも嫌いも熱の篭った感情を剥き出しにしていて、温かみがあった。
だけど今の東堂は、違う。
まるで巻島を切り捨てるみたいに、ちらりと視線をよこすだけで、いっそ無表情と言っていい冷淡さだ。

「ちがっ…違うっショ!!」
むしろ別れたくないから、こんな思い付きをしたのだ。
唇を噛み締め、なかば震えるように潤んだ目つきで眺めても、あきれ果てたとばかりの溜息を返されるばかりだ。
東堂の視線が痛くて、どうしようもなくて、巻島はただ俯くしかなかった。

「まあ、いい」
ぐいと力任せに、東堂が巻島の手首を引いた。
「と、…東堂ォ…?」
「誰でもいいから男に抱かれたいのならば、オレでも構うまい おあつらえ向きに空室はいっぱいのようだな」
首をめぐらせた東堂が、皮肉げに口端を上げた。

「ちがっ……違う!!」
誰でもいいのではない。東堂と触れ合いたいから、自分でもバカだと思う真似に出たのだ。
「何が違うと言うのだ いそいそと変装の道具を購入し…オレからの誘いを断ってまでして」

そこで、巻島はようやく思い当たった。
東堂がこうまでしているからには、全ての事情を察しているのだと。
「な…なん、で…」
「巻ちゃんは迂闊だからな 風呂に入るのに履歴も消さずにパソコンを落とさずにいるなんて、どうかしている」
平然と言ってのけた東堂に、微塵の罪悪感もなかった。

「巻ちゃんを奪い尽くしたい衝動を、オレはずっと我慢をしていた」
思い知らされるように、強く手首を握られ、巻島が喉奥でうめいても、東堂は案じる様子をみせなかった。
それどころか、薄く笑い、巻島の怯えを楽しむみたいにますます力は強められた。

一言一言が、牽制されるようで、巻島の身を竦ませる。
「だけど同性の場合、抱かれる側が多大な負担になると言うからな… インハイ前の練習時間を削らせるわけにはいかんと、オレは耐えていたよ」
東堂の暗い嗤いに、巻島はただ、首を振ることしかできなかった。

そのまま強引に連れ込まれた室内で、巻島はほとんど叩きつけられる勢いで、寝台へと倒された。
「安心しろよ、巻ちゃん インハイ前に傷はつけんよ…ただ、お仕置きは必要だな」

巻島が起き上がろうとするより先に、シャツは裂かれ後ろ手を拘束するための道具になった。
東堂はそのまま、室内の棚にある目隠しを、巻島に取り付け、視界を遮断する。
反射的に巻島がもがくほど、東堂は断固と自分の意思を貫こうとした。

「オレ以外に抱かれようだなんて、莫迦なことを考えんよう、搾りきってやろう」
巻島の下腹部のラインを、じれったいような動きで東堂の指が辿る。
「ちがっ…東堂 オレは、お前と……いやだ、やだ……見な…いで……」
快楽に反応してしまう、あさましい自分がいやだと、巻島が懇願をすれば、東堂は強引な口接けでそれをふさいだ。

こんな、なまっちろいひょろ長い体を、美しい東堂に一方的に見られるだなんて、苦行でしかない。
それなのに、東堂の掌が体をすべると、腰が砕けそうな愉悦に襲われてしまう。
曝け出した胸の先端は、時に摘まれ、時にしゃぶられ、視界を奪われた巻島に、辛いほどの快楽を与える。
触られていない巻島の先端から、雫があふれ出て下着を濡らした。
「もっ…やだっ…やだ――おねが……尽八ィ…あっ……」

馬乗りに巻島をまたいだ東堂は、腰の下で身を震わせる獲物に、うっとりと囁く。
「そんなに腰を突き出して、…イヤラしいな 巻ちゃんは」
必死で首を振り、怖いみたいにただ逃げようとする巻島は、常になく愛らしかった。

――もっともっと怯えて、『助けて』と自分に縋れば良い。

この白く滑らかな肌も、吸い付くようなラインを持った腰も、全部全部、オレのものだ。
どこを触っても、跳ねるように反応を返す敏感な体。
脳が痺れたように、巻島のすべてを食らい尽くしたくなってしまうが、今はまだ耐えられる。

高校生活最後、完全燃焼を目指すレース。
巻島と二人での、頂点を目指すための用意を、東堂は怠りなかった。
受身になる方は、かなりの負担になってしまうだろう。一度抱いてしまえば、歯止めが効かなくなってしまうと我慢を重ねた。

自分に負けぬほど、自転車競技を愛している巻島を尊重していたつもりだったのに、それが裏目にでていたようだ。
抱こいて来ようとしない東堂に、巻島が焦れていたのには気づいていたが、まさかこんな手段に出るとは思わなかったと、東堂は昏く笑った。

限界寸前まで昂ぶらせて、追い詰める。
ぬめりを帯びた先端を、くすぐるように触れ、びくびくと痙攣しはじめたところで、手を離す。
「んっ……あ……も…もうっ……や…ひっ…許し…やだっ」
再び高められれば、今度は熱を吐き出させぬよう、強く根元を握られた。

はじけそうな熱をせき止められ、巻島が背筋を仰け反らせれば、まるで胸の赤い先端を突き出すみたいになった。
かすれそうな喘ぎを洩らし、身もだえする巻島の姿は、いっそ哀れなほどだ。

(こんな巻ちゃんを、他の誰にも見せてなどやるものか)

「Y」と名乗ったのは、山神の頭文字で、それに「S」と返してきた巻島に、やはり運命を感じた。
バレていないとの目論見で、一生懸命嘘を重ねる巻島の本心は健気だが、その到着点が許せなくて、東堂は怒りのまま、ここへと連れ込んだ。
下肢だけで逃げをうつその身は、まるで弄られるためにわざとなのかとすら、思ってしまう。
少し傾けてやれば、その細い体は容易に反転し、巻島はうつ伏せで腰を突き出す形になった。
パシッと乾いた音が響き、巻島の双丘が紅くなった。
「お仕置きだと言ったはずだ 逃げるな、巻ちゃん」
尻をたたかれるという、屈辱的な刑罰は、体だけでなく巻島の精神も追い詰めた。
「ごめ…ごめんなさっ……やだ……やっ……」

巻島が自分自身の魅力に、まったく気が付いていないのを、独占欲から黙していたが、女の代わりを務めようとするなど、想像すらしていなかった。
――愚かで可愛くて、美しくて、愛おしい。

「巻ちゃん お前の初めても、これからも…永劫にオレだけのものだ」

喉を引きつらせ、目隠しの下泣きじゃくる巻島が頷けば、そっと重ねるだけのキスをされた。
ぐちゅぐちゅと、東堂の指先で奏でられる、淫らな水音は巻島の下腹部からまだ止むことはなかった。