こんな夢を見た。 巻ちゃんが、英国に向かって、三ヶ月目の頃だ。 当初のうちは悲しみやら、理不尽かもしれないが、直前まで黙ったままでいた巻ちゃんに勝手に腹を立て、電話を自分からかけながら、そっけない態度をとるという、 自分本位なひどいことをした。 最近になって、スカイプ越しにようやく笑い話もできるようになった頃、おかしな夢を見るなど、タイミングがいいことだ。 ――その夢の中、オレと巻ちゃんは幼馴染だった。 ******* ジンパチが死んで、半年がたった。 幼い頃からいつもそばにいて、気が付けば巻島に張り付くようにしていた彼を、周囲はみな微笑ましく、「ジンパチは裕介を護っているつもりなのよ」と見守っていた。 死因は法定速度を無視した車に、跳ねられたこと。 ――ジンパチは、裕介の兄が見つけ、拾ってきた黒猫だ。 命名した兄が言うには、ぎょっとするほどの美猫で、出会ったときに目をパチパチさせていたからだという。 しかし「ぎょぱち」ではあんまりなので、「ジン」と感動するほどの美猫に修正され、ジンパチになったのだとか。 …もっとも、巻島兄は、真顔で冗談を言うのでどこまで本当なのか、裕介にもわからない。 だがとにかく美形の猫であったのは、確かなことだ。 プライドが高く、自らの毛並みの良さを誇るように、いつも美しい烏の濡れ羽色をしていた。 人懐っこいようでいながら、愛想はあっても、最終的にはいつも巻島にしか付きまとわないという、一途さを持っていた。 記憶にない頃から一緒の時間を過ごし、猫にしては寿命より長く生きてくれていても、いつかは離れる存在だとは思っていはいた。 だが、そのあまりにあっけない別れに、巻島はただただ涙を流すしかなかった。 眠ろうとすれば、傍らに寄り添い、食事をしようとすれば、まるで残さないかと見張るように、じっと横にいたジンパチ。 その不在は、巻島の中身をからっぽにしてしまったかのようだ。 もともと細かった食が、さらに細くなり、少なかった口数も、寡黙にちかいようになれば、周囲は心配する。 それに応えようと、無理をすればするほど、家族との疎通がぎくしゃくするという悪循環を、救ってくれたのは、ある日隣家に越してきた少年だった。 シャワシャワと、にぎやかにセミが鳴き、べとついた空気が蔓延する夏。 だが巻島家の庭にある大木は、大きな影を落とし、涼しげな空間を絶えず供給してくれていた。 冷房の嫌いな巻島が、庭の片隅の木陰で、膝を抱えて丸くなって座っていたのを、玄関先に訪れた少年は見つけたようだ。 母親の袖を引き、あそこに誰かがいると告げたが、目線の違いで、大人では巻島の存在は、確認できなかったらしい。 少し首をかしげ、首を振っているのは、わからないと答えているのだろう。 和服では、人様の庭前で気軽にしゃがむというのも、難しい。 誰かがいるのだろうかと、探そうとするより先に、インターフォンの返答があり、女性はそちらへと向き直った。 転居の挨拶に来たという少年の母親は、いまどき珍しい着物を着こなした、黒髪の艶やかな優美な人だった。 巻島家の近所一帯は、豪邸が並ぶと称される住宅街で、そうそうに人の入れ替わりはない。 だが、隣宅は仕事を引退したあと、海外で生活をするのだと、定年と同時に先月まで家を売り出していた。 いつしか売り邸案内で、お隣を見なくなったと思えば、買い手が決まっていたのだろう。 雰囲気がいい町で気に入ったと隣家を購入し、越してくるとの挨拶での来訪だった。 年が近いこともあって、初対面から打ち解けた雰囲気で、巻島母との会話は弾んでいる。 母親と一緒に訪れた少年は、長い女同士の話に退屈をしていたらしい。 おとなしく母親の横に立ってはいるが、空を見上げたり、地面に動く蟻を見詰めていたりと、注意力が散漫になっていた。 子供をないがしろにしてしまったと、巻島母が 「ぼく、お母さんのご挨拶中大人しくできていて、立派ね」と目を細めた。 褒められるのに、まんざらでもない様子で、少年は 「ぼくではないな!東堂尽八だ!」と得意げに返す。 「こら、『です』でしょう」 すかさず割って入った母親は、随分と幼い息子にも、しっかりとした躾をしているらしい。 だが叱り付けるでなく、さっとした注意であるので、聞いている方も、心地良くその言葉は耳に響いた。 「……じんぱち、です」 耳馴染みのある名前に、巻島母は、ほんの少し目を瞠った後 「すごい、うちの息子にも見習わせたい立派な自己紹介ね」とさらに讃え、 「尽八くん、おやつを一緒に用意するから、息子を呼んできてくれる?庭にいると思うの」東堂の目線に合うよう幾分屈みながら、続けた。 「いいぞ!」 「いい『です』」 「…いい、です」 息子の言葉尻を正した後、辞退する東堂母に対し、せっかくだからお茶をしていってくれ、ご迷惑でなければまだ話したいのだと、巻島母はふわりと微笑んだ。 優しい雰囲気で、心から歓待されている様子に、ご近所付き合いを越えた友人になれそうだと、恐縮をしながらも、東堂母はその招待に乗った。 ガサガサと茂みが鳴る音がしたと思えば、見たことの無い子供が、そこにいた。 視界に入ったのは、大きく『8』とプリントされている、水色のシャツ。 「何してるのだね?」 巻島が顔を上げると、まぶしい笑顔がそこにあった。 母身お迎えを頼まれたという少年は、横に来ると、巻島の肩に触れる距離に並んで、当然のように木陰に腰を落とす。 ――さきほど、目の端に移ったキレイな緑の髪は、見間違いではなかった。 東堂が庭に戻り、一番に探したのは、庭先のキラキラを見つけた場所で、想像通りにそこには、自分に近い年齢の少年が一人座っていた。 「……」 訝しげな巻島に、何も答えられていないが、東堂は気にすることない様子だ。 きょときょとと、巻島家の庭を見渡し、広いな!かくれんぼもいっぱい出来そうだと笑う。 半そでの剥き出しの腕に、少年の乾いた肌が触れ重なるが、その熱は不思議と、巻島を不快にさせなかった。 むしろ、失ってしまった黒猫の温かさを、思い出させてくれた。 「こんなところでじっとしていても、つまらんだろう?」 「別に……」 退屈なんて、したことはない。 緑の揺れる葉っぱが鳴らす音や、行列を作る蟻、大声で鳴いては何故かピタリと同時に鳴きやむセミたちと、夏の庭は巻島の興味をひくもので、いっぱいだ。 それでも、それを素直に口に出せないのが、巻島だった。 ――そんな巻島を飽きずに、いつまでも傍にいてくれたのは、黒猫のジンパチだけで、思い起こせばまた視界が薄く滲む。 「……っふ……っ…」 「えっ……なな、何で泣いて!? オレ、なにかしたか?」 「ちがうっショォ…… オ、オレの、大事な友達が、い、いなくなって…」 ひっくともえぐえぐともつかぬ、必死で声を忍ばせて涙を流す巻島に、少年がおずおずと手を伸ばした。 そっと伸ばされた手が、巻島の髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。 何をするんだと、睨むつもりで顔を上げれば、なぜか少年も泣きそうな顔で、不器用になぐさめようとした結果らしい。 一生懸命に、巻島を泣きやませようとする様子は、いつまでも悲しみにひたらせない、ひたむきさを放っている。 幼いながらも、それなりの矜持がある巻島は、涙を拭い、少年へと向き直った。 「おまえ、何のようショ」 「む、泣きやんだな!おばさんがな、おやつだからお前をよんできてくれというのだ!」 「お前いうな、しつれいっショ」 「……名前をしらんのだから、しょうがないだろう」 「…人のなまえ、知りたかったら先に名乗るのがれいぎって、先生いってた」 「オレはとうどうじんぱち! みんながかわいいとほめる男だ!」 それは自慢になるのかという疑問より、名乗られた名前が信じられなくて、巻島は目を瞠った。 何度かまたたきを繰り返し、「ジンパチ…?」と聞き返す。 日の光に艶やかな光を返す黒髪は、黒猫だったジンパチを連想させた。 白いカチューシャは、まるでジンパチのお気に入りだった首輪のようだ。 生まれたときから、ずっと一緒にいた友と同じ名前の少年は、名前を教えてくれと笑う。 「まきしま、ゆうすけ…」 「まきしまか…まきちゃんだな!」 「…そういう呼び方なら、うちの家のやつはみんな まきちゃんになるぞ」 「いいんだ!お前がまきちゃんだ!!」 巻島の手をひいて、立ち上がらせる東堂は、おやつはなんだろうなと楽しそうに首を傾げる。 「多分、母さんきのう作ってたプリンショ」 「ぷりんか!いいな!オレは好きだ!!」 ジンパチを亡くしてから、食欲も失せていた巻島の為に、せめてもと母が作ってくれてい喉越しのよいたおやつ。 なぜだかわからないけれど、東堂と食べたプリンは、久しぶりにその甘さを堪能できる、美味しいものだった。 **** 「巻ちゃん!朝だぞおはよう!!」 「あらあら尽八君 毎朝ごめんねぇ まだあの子ったらベッドから離れなくて… 見てきてくれる?」 「はい、もちろんです!」 「朝ご飯は スクランブルとオムレツと目玉焼き、どれがいいかしら?」 「ではスクランブルでお願いします」 女系家族だという東堂家は、母親も役職についており、出張中なことも多く、尽八の朝食は巻島家で済まされることが多い。 もちろん、それなりに裕福である東堂家は、人を雇ってもいいのだからと全力で遠慮をしたのだけれど、ほわほわとした巻島母に、息子を立ち直らせてくれた友人に、 少しでも恩返しをさせてと、頼み込まれてしまっては、断る事も出来なかった。 「お邪魔します」 かって知ったるとばかりに、軽く頭を下げて東堂が乗り込む先は、巻島の寝室だ。 幼い頃は、寝起きの悪い巻島の顔をひたすら舐めて、起こそうという黒猫がいたが、中学生になった今は、下手をすればそれよりタチの悪い起こし方をされる。 今まで一番ひどかったのは、これだ。 寝ぼけていた巻島の目を覚まさぬよう、上半身のパジャマをそっと脱がし、東堂も自分のシャツを脱ぐ。 そして寝台に音もなくもぐりこみ、巻島の首下へ、腕枕をさしこむ。 その後は起こすでなく、巻島が目を覚ますまでの数分間、そのままでいるというものだった。 用意周到に東堂は、裕介の兄に10分後にデジカメを用意して、寝室に来いとまで告げていた。 ――カチャ、とドアノブが回る音がした。 「ぶはっ…!!!!おまっ!!!!何やってんだwww」 良く似てはいるが、少し声質が低いこの声は、巻島の兄のものだ。 律儀にちょうど十分後、巻島の兄は、東堂の指定どおり弟の寝室扉を開けたのだ。 同時に、腹筋崩壊とばかりに、指差して盛大に笑う兄の声で、巻島もさすがに目を覚まし、ゆっくりと目を開ける。 「……ん……?とうどぉ……?」 巻島裕介のみに限定し、パーソナルスペースが極端に狭い幼馴染だが、寝起きの目の前…口接けできそうな距離に、顔があることはそうそうない。 寝ぼけた頭で、ぼーっと東堂を見つめていれば、相手はにっと口端を上げ 「おはよう、ハニー」と腕枕を意識させた。 実の弟と、隣家の弟の存在のような二人の、事後を連想させるツーショットに、大笑いできる兄はツワモノでだった。 少しずれた体に、東堂の生肌が触れ、慣れぬ感触に慌てて脳内まではっきりと覚醒させれば、横から 「……おはよう、ハニー」 の囁きが耳朶へと落ちた。 「ショォォォォォォォ!?」 反射的に、覗き込んできていた東堂のデコを全力で押せば、上半身裸の互いが、シーツの下にあった。 「え、え…え!? なに……えっ…!?」 「巻ちゃん、昨夜は……可愛かったぞ」 「へ? え???え?」 「フハwwちょっwww裕介ww動揺しすぎだ!」 笑いすぎて、むせてしまっている兄の前で、東堂が広げたのは『どっきり成功!』と書かれた巻物のような紙。 全身で脱力をした巻島の前で、兄と東堂はハイタッチを交わしていた。 それ以来、東堂のおかげで巻島の目覚めはよくなったと、家族内の東堂株が上がったのは一言「解せぬ」と主張したい。 ――今も記憶に残る、ジンパチは、長生きをしていた黒猫だった。 いつかの予定だった別れが突然すぎて、巻島の視界からすべての色を失わせたけれど、かわりに良く似た少年との縁を残してくれた。 どことなく黒猫を連想させるしなやかさと、漆黒と表現できる美しい髪。 裕介がジンパチによって失ったこの世の色は、尽八と出会ったことで、取り戻せている。 だが、ずっと一緒に居たいと望むには、この幼馴染は眩しすぎた。 少し離れてみようとしても、距離を開ければそれ以上の勢いで、東堂は追い駆け、いっそ束縛したいとまで言い出す。 冗談混じりではあっても、その中に含まれている本気は、自分を慕ってくれていた猫のようで、巻島は温かい気持ちと、このままでいいのかと複雑な気持ちが入り混じる。 「オレはな、巻ちゃんと初めて出会い、目の前で泣いたときに理解したのだ 俺の永遠の運命がここにいたと!」 「……忘れたショ」 「忘れるものか! 何かに耐えるようにしていた巻ちゃんの、ハラハラと泣き崩れる健気さ…」 「…忘れろ」 「お兄さん!お母さん!!裕介くんをオレにください!一生幸せにします!!」 ダイニングの食卓で、朝っぱらからなぜか東堂に盛大にプロポーズをされているが、恒例行事なので、巻島家の誰も動じていない。 いや、巻島裕介のみいい加減にするショォ!と、ひたすら反抗を決め込むが、それすら行事の一環なのだ。 「あらあら裕ちゃん、もう結婚相手が決まっちゃったのね!尽八君がお母さんの息子になるなんて嬉しいわぁ!」 おっとりした母親のいう事は、どこまで本気かわからない。 「俺の可愛い弟はツンデレだからなあ…合意を得られたら、応援してやるぞ将来の義弟よ!」 「お兄さん!!」 助けを求めるつもりで、兄に振り返れば、もっとどこまで本気かわからない光景が広がっていた。 困ったことに、今ここに不在である父は、わが子の意思を何より尊重するという主義であることだ。 つまり、巻島が東堂を選べば、何の反対もしないという事だ。 おかげで巻島の自由奔放と称される、緑輝く髪色にもお咎めなしなのだが、そうなるとこの場合、頼りに出来ないだろう。 そして…。 もっとも困ったことは、東堂尽八が、本気で巻島裕介を一生幸せにしそうな点だ。 そろそろ、このおせっかい且つイケメン幼馴染を、自分から開放しなくては。 そう決意していた巻島は、東堂に気取られぬよう、小さく吐息をついた。 ***************** 接触を意識するようになったのは、東堂は成長とともに、一つ困ったクセが増えていたからだ。 ……それは事あるごとに、匂いを嗅ぎたがるというもので、あまり人様に公言できるものではなかった。 首筋、腹部、二の腕…どこも、柔らかい箇所が中心で、東堂に鼻を近づけられると、むず痒いような感覚も伴い、どうにも居心地が悪い。 もっともその被害者は巻島裕介限定で、つまりは困っているのも、巻島裕介のみだ。 つい先日にも、こんなことがあった。 約束がなくとも、東堂が夕刻に巻島邸に訪れれば、それは無条件に泊まっていくという事を意味している。 互いの両親ですら、尽八の「巻島家に行く」「じゃあ帰りは明日ね」で終了してしまうのだから、それはもう日常の一部でしかない。 幼いことからずっと一緒にいた東堂の温かさは、猫の添い寝に慣れた身のせいか、巻島も嫌いではなかった。 そのためお昼寝だのお泊まりだので、一緒の布団に眠るのも珍しいことではない。 いやむしろ、二組の布団が用意してあっても、利用された痕跡があるのは常に一組だといってもいいだろう。 起こしに来た者たちは、ちびっ子たちが両手を繋いで眠る様子を、いつもほほえましく見遣っていた。 だが最近、その微笑ましい様子が、微笑ましくないのだ。 そろそろ眠るスペースが狭くなるから、お前はあっちの布団を使えと巻島が告げたのが、東堂の琴線に触れたらしい。 据わった目をした東堂は、背中を向けて眠る巻島のベッドにのそのそと入り込み、がっしりと背後から抱きついてきた。 「こうしてくっつけば、狭くないな」 「…狭ェよ そしてウザいっショ」 「ウザくはないな!……巻ちゃん、いい匂いがする」 すんと鼻を鳴らし、東堂が巻島の首筋に顔を埋めた。 まるで犬のように、東堂の鼻が巻島の薄い肌の上を走った。 くすぐられるみたいな感触に、巻島の全身が小さく震え、無意識に逃げをうとうと身を捩じらせれば、強い力で腰を抱き寄せられる。 シーツの感触が気に入っている巻島は、腿までしかないショートパンツで、東堂はそれより丈が長いけれど、ゆったりしたハーフパンツだ。 抱き寄せてもまだ巻島が、離れようとしているのを察したのだろう。 東堂の膝が背後から、巻島の両膝の間に割って入る。 動揺した巻島が足を抜こうとすれば、東堂は意地にでもなったようにますます深く足を絡め、太股までが密着してしまった。 ――こそばゆい、変だ。 むず痒いような、よくわからぬ熱で、不安になって泣きそうになるから、離してほしい。 「東堂ぉ……」 不自然に視線を壁に固定させ、わざと哀れめいた声を出せば、この察しの良い幼馴染は、こちらの思惑に気がついてくれるはずだ。 だが東堂は、今日に限ってそれを無視するつもりらしい。 巻島が顔を上気させ、躰の芯がぼうっとなりそうな様子を見せれば、むしろそれに煽られたように、喉が嚥下する音が聞こえた。 「巻ちゃん……」 耳朶すぐ後ろに唇を近づけ、東堂が名前を呼ぶ。 巻島には見えないが、情欲を湛えた東堂の瞳はいつもより色濃く、獰猛な匂いを立ち上らせている。 「…巻ちゃん」 カサついて、いつもより低い声。 「ん……っ……」 東堂の指がうなじを這い、知り抜いた巻島の弱い箇所を、くすぐるみたいに攻めれば、反射的に内腿を締めてしまう。 深く挟んでしまった足は、まるで東堂を放したくないみたいになって、巻島はただ違う、違うと首を振った。 東堂の掌が、抱きしめるだけではなく、意図を持って腹部の辺りをさまよっている。 「ひぁっ……!」 心臓が、乱打する。 東堂がいたずらのチャンスとばかりに、ぺろりと首筋を舐めてきたのだ。 眉根をいつもより深く寄せた巻島は、悶えるような声を出すまいと、必死で自分の唇を掌で覆った。 まだ、今なら。 幼馴染の、ちょっと過度なスキンシップだ。 力を抜いて逆らわなければ、東堂は巻島を嗅いで触れるだけで、このままきっと満足してくれるだろう。 薄氷を渡るような心持で、巻島は東堂の動きを阻むのをやめた。 ――このままでは、東堂を好きだと言ってしまう。 その前に、離れなくては。 決意をした巻島は脱力し、今は東堂の好きにさせ、かねてよりの計画の準備をすすめることにした。 *********************** 「どういうことだね!巻ちゃん!!」 挨拶もそこそこに、巻島の私室の奥側、寝室にまで乗り込んできた東堂は、当然のように入室許可を得るどころかノックすらしない。 東堂の手に握られているのは、イギリスにある全寮制学園の入学案内だった。 全寮制のその学校に行けば、幾らなんでも東堂も巻島から離れるだろうと、こっそりと手続きを進めていたのに、どこでバレたのだろう。 嘘はつけない巻島が、返事の代わりに、何度かまばたきを繰り返せば、東堂はフゥと細い息を吐いた。 「巻ちゃんの母上と兄さんから、聞いた」 「……何でだよ 絶対バラすなって言ったのに!」 「二人ともばらしてはおらんぞ、単にオレの前で 『裕介がね高校生になったら、海外で寮に入るって言うの!寂しいし心配だわ…』『大丈夫だよ母さん、裕介には頼れる幼馴染がいるからな… おっと ここに裕介が手続きを進めている学校のパンフレットが』…という会話をしていただけだ」 「…家族コントかよ!」 思わず二人がいるであろう居間の方へ向いて、軽く巻島が毒づけば、そっと背後から温もりを感じた。 緩やかだが絶対に逃げ出せないよう、東堂が抱き締めていた。 「ショッ!?ととと、東堂!?」 熱が伝わるだけでなく、物理的にも心理的にも拘束されているようで、巻島の体は思わず強張る。 「…離せよ」 「断る」 巻島の言う事を、たいていは聞き届けてくれる東堂だが、ごく稀に何をどうしたって自分の意思を貫こうとする時がある。 今の東堂の声は、それだった。 巻島が困惑しているのは、この温かさに慣れ過ぎてしまったことだ。 同級生の女の子が、いい加減に幼馴染だからって東堂くんにべったりなのはやめてよ、東堂くんを解放して!と詰め寄ってきたことで、巻島は迂闊にもようやくそれに気がついた。 赤ん坊の頃から一緒に居たジンパチ、そしてその不在で空虚になりかかった心を、独占する勢いで占めていった東堂。 どちらもあまりに自然に横にいたので、それがひどい事だと考えもしなかった自分を、巻島は思い起こし反省した。 「巻ちゃんがそんな事を言い出したのは、3組の女子に何か言われたからか?」 ぎくりと小さく、東堂の腕の中での身じろぎは、そのまま伝わってしまう。 饒舌とは正反対の巻島は、うまくそれをごまかすすべを持たなかった。 チッと舌打ちをした東堂に、巻島は目を瞠った。 ずっと一緒にいた幼馴染は、いつだって礼儀正しく、そんな下卑た行いをするはずがないと信じていたからだ。 その僅かな同様すら悟ったようで、東堂は振り返った巻島の前から険しい目つきをすぐに消し、口端を上げた。 「すまんね巻ちゃん オレのせいで」 東堂を好きな子が、思い余って巻島に当たってきたのだから、婉曲的にはそうともいえなくはない。 だが、世間一般から見ても、正しいのはきっとその子の意見のはずだ。 「…なんでお前のせいっショ あの子の言った事は間違いじゃないだろ……だから……」 自分はお前から離れようと決意をしたのだ、という語尾を巻島は濁す。 「違う」 間髪いれず返された断言は、どこか忌々しげで低かった。 「巻ちゃんにそんな事を、思わせてしまってすまない」 「…お前は悪くない それにお前を好きになった女の子だって……」 「悪いさ 自分の気持ちだけで突っ走って、好きだと言う気持ちに酔ってのあげく、巻ちゃんに暴言だなんて虫唾が走る」 自分に甘い東堂ではあるが、予想以上の激烈な切棄てに、動転し言葉がみつからなくなった。 「と…東堂ォ……?」 呆然と自分の名前を呼ばれ、東堂は軽く腕を引いて巻島を半回転させると、正面から巻島に抱きついた。 「オレのことが本当に好きだというのならば、オレの巻ちゃんへの思いすら含めてでない限り、そんなものは偽物だ」 「……お前、無茶苦茶言ってるっショ……」 「そんなことはないぞ!現にオレのファンクラブの女の子たちはその辺をわきまえている」 どこまでも自分本位な男なのに、どうして許されているのだろう。 そして東堂自身は、臆病な巻島が、毒虫のけばけばしさを擬態したかのように、人を寄せ付けぬ姿をしたって、平気で近寄り笑いかける。 時には傷つける言葉を吐いたって、いつだって自分を許すのだ。 もうダメだからと、離れようとした決意が揺らいでしまう。 こんなに苦しいのは、東堂の幸せを思っているからだと、伝えられたら良いのに。 「なあ巻ちゃん 一つだけ言っておく」 「何だよ」 「オレの幸せを、巻ちゃんが勝手に決めようとするなよ それだけは許さんよ」 「…勝手に…って……」 「そうだな、例えばだ 巻ちゃんの誕生日に、オレがプレゼントを迷っていたとする」 巻島の誕生日は、七月七日と非常に覚えやすく、それほど親しくない人でも「おめでとう」と告げてくる程度には浸透していた。 そんな言葉だけでなく、プレゼントやケーキなども贈ってくれる友人はいるが、その中で一番になりたいと、毎回苦心をしているのが東堂だ。 自分としては、そんな悩むよりは一緒にいてくれた方が嬉しいとのつもりで、 「何が欲しい?」と尋ねられても、毎回「いらねェ」と答えているのだが、それすらも東堂はお見通しのようだった。 「オレは巻ちゃんへのプレゼントを迷う時間を、無駄だとか苦しいとか思ったことはないよ 毎回、巻ちゃんが喜んでくれるだろうか、 気に入ってくれるだろうかと考えながら迷う時間は、心が温かく幸せなひと時だ」 柔らかな眼差しで見られ、それすらも苦しい気持ちになって、巻島の目が泳ぐ。 「だけど巻ちゃんは、オレが悩むなら、プレゼントはいらないって方向に考えてしまうだろう」 まさにその通りで、巻島にとって今の行動も、東堂のためのつもりだった。 「あまり、オレを見くびらないでくれ」 「……な、何……」 「オレが巻ちゃんのために行動する時間どれもに、オレが望まず行っているものはない オレにとって巻ちゃんは世界の全てで、片割れなんだ…それを、巻ちゃんが勝手に奪わんでくれ…」 巻ちゃんのために、プレゼントを考える時間。 巻ちゃんのために選んだプレゼントを用意するための、準備。 素直じゃない巻ちゃんが、こっそり見せてくれる輝かせた瞳。 「大事にする」と、甘くすら聞こえる呟きで、大切そうに掌でそれを包み込んでいる巻ちゃんの姿を見るだけで、自分はなにより幸福だと東堂は告げた。 「…という訳だから、たとえ全寮制に行こうが、海外留学しようが俺から逃れられるとは思わんでもらおう」 「でも……」 「そうだな 巻ちゃんがどうしてもオレの意志で、巻ちゃんから離れてくれと望むなら…それを叶えよう」 熱を失った声での、東堂の目線は記憶にないほど、鋭かった。 「そして…オレはもう巻ちゃんと、一生口をきかない」 東堂が改めて告げた言葉は、神妙でそして冷酷だった。 ピクリと体を震わせた巻島は、何を言われたのかわからぬみたいに、首を傾げた。 「な…んで…」 「この世のどこかに巻ちゃんがいるのに、巻ちゃんがオレの隣にいないなら、いっそ無意味だ オレの心はどこにあっても、お前を探してしまうし求めてしまう」 「東堂……」 「だから、そうなったらオレにとっての巻ちゃんは この世にないものとでも思わなければ…無理なんだ」 まるで宣言するみたいに、東堂は爽快に微笑んだ。 追い詰められているのを感じながら、それでも探るように、眉を寄せて東堂を見る巻島。 いたたまれないように、何度か唇を開いても、乾いた空気しか紡ぎだせずにいる。 鼓動が高まり、胸の奥が焦がれるように痛い。 ――自分の勝手で、こいつを自分などにつき合わせてしまっていいのだろうか。 「ああ、それでも もし巻ちゃんが本気でオレを邪魔に思うのなら、一言いえばいい」 巻島の不安げに揺れる瞳には、皮肉っぽく口端をあげる東堂が写った。 「死ね、と」 「………なに、言って………」 「大丈夫だよ そうなっても、けっして巻ちゃんのせいではない 巻ちゃんが望むことを、オレがオレの意志で成すだけだ」 ぞんざいなんだが、自分本位なんだかわからぬ傲慢な態度で、とんでもないことを言う。 巻島が東堂と離れようと思ったのは、ひとえに東堂のためだと思う一心で、そんなひどいことを、考えたはずもない。 「なんで、そん…な……」 東堂をそこまで追い詰めたのは、自分だろうかと背筋がわななき、目の縁に涙が宿る。 「泣かないで、巻ちゃん」 こみあげてくるものを、必死で耐えようとすれば、東堂の深い色をした双眸が自分を覗き込む。 「な、泣いてなんか……」 「……オレは、それぐらい言われなくちゃ……自分から巻ちゃんと離れるなんてできんよ……」 巻島の必死の強がりも、東堂の言葉で頬に滴が伝われば、もうまったくの無意味だ。 唇を噛んで、嗚咽を耐えようとすればするほど、巻島の体の震えは大きくなった。 苦しいのに、泣けばまたこの男は、見当違いの解決方法を提示してくるだろう。 それはいっそ、甘い毒と言いたいほど、自分を東堂に耽溺させる。 「ごめん、ひどいことを言った」 両腕を伸ばした東堂が、そっと巻島を胸に抱く。 「そ…うだ……バカパチ……オレが、そんなこと……」 「うん、…うん だから逃げないで」 懇願するような声なのに、躊躇はなかった。 「 …巻ちゃんが、オレから離れて…オレ以外の誰かを選んでは…オレは世界を憎んでしまう」 欲しい、後悔しない、もう限界だと、その低い声は叫んでいた。 「好きだよ」 と、巻島を無防備にさせる台詞をささやいて、東堂はまた腕の力をこめた。 背中をぎゅっと抱き寄せられて、巻島がすがるみたいになってしまっても、東堂は熱っぽい視線のまま、その拘束を緩めようとはしない。 「オレは離さないからな」 「………ん……」 鼻を軽く鳴らしただけみたいな、巻島の返事だがそれで充分だった。 これ以上はない優しい笑みを浮かべ、東堂は巻島の耳朶近く、「ずっと一緒だぞ」と告げた。 「ん…一緒、だな」 もう離れなくていいのだと、巻島は東堂のぬくもりと視線を、あらためて受け入れていた。 目蓋の裏に白い光がさしこみ、朝の訪れを予告している。 白い光はじわじわと脳内に満ちていき、目の前の世界は紗のカーテンで隔たれたように、薄くなっていった。 そして。 …この世界の東堂でない者が、自嘲めいて呟く。 ―――ああ、この世界のお前も…オレと同じく、やはり巻ちゃんに焦がれているんだな ふわりと、意識が浮上していく。 自分の体でありながら、自分の意思で動けなかった肉体を離れ、今のオレは二人を見下ろすような位置にいる。 立場が変わっても、オレの巻ちゃんへの思いは変わることがないのだと、東堂は自分の執着心に苦笑した。 ……そして、第三者視点で見たオレは、相当ヤバイ。 というより、巻ちゃんの警戒のなさがヤバイ。 同じ布団で後ろから抱きかかえられ、足を割られ、腹部を撫でられて、匂いを余すところなく嗅がれ、舐められて、なぜそうも平気でいるのだ。 あれは相手がオレの姿をしていなかったら、「お巡りさんコイツです」とオレが通報したいぐらいだった。 もちろん、そんな巻ちゃんだからこそ、愛おしいのだが。 ************** ――夢の中のオレは、どうやら巻ちゃんと離れずに済んだようだった。 それだけではなく、他にもこちらの巻ちゃんと違う点が、幾つかあった。 オレの初対面の印象が「玉虫色」だったせいか、あの世界では巻ちゃんは幼い頃から、緑の髪をしていた。 そして成り行き上当然ではあるが、同じ学校に進んでいる。 それはすごくうらやましい事だが、夢の存在のオレは、巻ちゃんとの出会いで一瞬にして広がった、鮮やかな世界や新しい色彩を知らぬままだろう。 いや一緒に生きていれば、少しずつそういった経験が、何度も重なっているのかもしれない。 だが、天地が一転するほどの衝撃を受け、一つのレースを終えるごとに、こみ上げ来たオレと巻ちゃんの熱情を、知らぬのだ。 オレは離れていても、夢のオレと変わらず…自分の世界にいる巻島裕介を、愛していると、断言できるだろう。 夢のオレは、そちらで幼馴染の巻ちゃんと、幸せになるといい。 オレは、俺の世界で……巻ちゃんと幸せになってみせる。 …ああ、もうこんな時間だ、巻ちゃんに連絡をしなくては。 「もしもーし、巻ちゃん!? オレ東堂!」 イギリスの巻ちゃんに、通話を入れる。 携帯電話のサービスが広がった今、国際通話の定額プランが存在するのはありがたい。 もっとも今では、スカイプを入れたので、姿が見えて会話できる利点から、ほぼそちらを利用しているが。 巻島にカメラを設置するよう、説得するのは大変で、結局東堂が海外発送をしてまで、webカメラを送りつけた。 それに負けた巻島が、あきらめてようやく導入したのはここだけの話だ。 「クハッ…距離あってもおまえのにぎやかさは変わんねぇなあ」 眉を寄せて、それでも笑う巻ちゃんはイギリスに行って、さらに魅力的になったようにみえる。 もともと日本人離れした容姿や肢体を持っているのだ、おそらく水があったのだろう。 ――そうだ、面白い夢を見たと語ってみよう。 だが、オレが口を開くより先に珍しく巻ちゃんが言葉を続けた。 「そういや、お前と幼馴染っていう面白い夢、見たっショ」 |