予想に反し、東堂のキスは上手かった。 もちろん変に潔癖の気性をもつ巻島は、他のだれとも口を合わせた経験などない。 それでも、初めての口接けから、思わず東堂にすがり、立てなくなるほどの快楽に襲われたのだから、これは上手なのだと判断するしかないだろう。 おずおずと触れてきた唇は、男のものでも柔らかいんだなと、巻島がぼんやり考えているうちに、舌が口腔に入り込んだ。 はじめてでいきなりのディープかよと、反射的に逃げそうになった巻島の腰を、東堂が強く引き戻す。 その反動で、唇の触れていた面積は広がり東堂の侵入を容易に許してしまった。 熱さすら感じる舌先が、巻島の食いしばる歯を開けるよう、歯茎を舐めて促す。 その慣れない感触に、いやいやと小さく首を振れば、顎を掴む手の親指が巻島の唇下を強く押し、無理やり隙間を作らせた。 逃げる巻島の舌を、東堂はおいかける。 「んっ…ふっ……」 何もわからなくなって、呼吸すらもおぼつかなくなった巻島が、くったりすれば、ようやく開放された。 そんな巻島の様子に、愉しさを隠しきれない様子で、東堂が畳み掛ける。 「巻ちゃん、初めてか?…可愛いな オレの口接けでメロメロになってくれて嬉しいよ」 ……デリカシーが、なさすぎる。 東堂の自信過剰はいつものことだが、同性同士というプライドの絡む恋愛で、受身になる覚悟だけでも恥ずかしいというのに、それを揶揄された気持ちになってしまう。 悔し紛れに巻島がとった行動は、 『オレも、 オレだってキスの練習してやるっショ!』と叫んで、脱兎のごとく帰るというものだった。 用意されたいた夕飯を片付け、自室に戻り、恥ずかしさと半ば悔しさが入り混じった感覚で、机に伏せていれば、静かな室内にスマフォのバイブ音が響いた。 どうせ東堂だろうと、放置していたのだが、例にも寄って数分感覚で続く。 「ああもう!うるせ……荒北?」 いっそ電源を切ってやろうかと、巻島が取り出したスマフォの着歴には、予想外の人物な名前が並んでいた。 何があったのだろうと、さすがにすぐに掛け直せば、荒北は即座に電話に出た。 「あ、巻チャン 夜遅くに悪いネ?」 「いや… それより…」 東堂ならばともかく、荒北のあの着歴数はありえないと、語尾を濁せば、カンの良い男はすぐに気が付いたようだ。 「うちのアホが 何かやらかした?」 率直に聞いてくる荒北に、巻島は逡巡する。 やらかされたといえば、やらかされたのだが、言えるはずもないし、ましてやそれに対する、幼すぎた自分の行動まで含めると、答えるのは難しい。 「えっと、あの……東堂が、どうかしたっショ?」 ごまかすでなく、荒北が連絡をよこしたのは根本はそこだろうと、巻島が質問で返した。 「夕飯食って風呂入るまでは、なんかもー呆れるぐらいの浮かれオーラ全開だったんだけどヨ」 めんどくせェと小さく呟いた荒北は、それでも面倒見が良い。 「風呂上りにいきなり、なんか気が付いたみてェで『…練習…だと!?いかんっいかんよ巻ちゃん!!』って叫んで、寮から出てこうとするから、全員で監視中」 監視との名目だが、夜間不祥事になってはしゃれにならないので、実質監禁だろう。 「…っのバカ……」 前髪をかきあげ、うつむいた巻島に追撃が入った。 「東堂が巻チャンの、ロードの練習邪魔するはずないよねェ?…で、なんの練習?」 巻島の様子から、だいたいの流れを察しているらしい荒北は、深刻な雰囲気が消え、含み笑いをしているように感じる。 「………べべべ、別に、えっと…」 「東堂がなんか気づく前まではさァ 『巻ちゃんがオレの為に練習をしてくれるんだ!』って浮かれてたんだよねェ」 「ペ…ペダル漕ぎの練習っショ! 東堂に次のレースに負けないようにっ」 「ふーん」 「何だよその返事」 「いやいいケド 東堂にそう伝えても、多分まったく信じねェでそっち出向いて、『許さんよっ!』って涙ながらに自宅前で叫ぶだろうなァって思って」 ――非常に残念な絵面になるが、確かにその公算はかなり大きい。 今 必死でごまかしても、自宅や学校前で「巻ちゃん!!キスの練習とはどういうことだ!オレ以外の誰と、いつやるというのだ!!」と叫ばれては、 なおさら事態は最悪になる。 どうしよう、ここは一つまだ日頃の自分と東堂のやり取りを知っている、箱学のメンバー内で話が収まるよう素直に話しておくべきか。 そんな巻島の逡巡は、長く続かなかった。 「あーまた叫び始めやがった なんか誰かがキスの練習をするとか言い出したとかで、東堂 錯乱してるみてェで うるせーうるせー」 荒北のその声は、すでにそれが『練習』の内容だと確信を持っていた。 「……荒北ァ!!おまっ…!…解ってて!!」 「いやァ まあ99%そっかなと思ったんだけど、万が一間違ってたら巻き込むことになるし?」 荒北の言葉は一面の真実も含まれているが、一面に男子高校生らしい、イタズラ心もあったのだろう。 巻島と荒北は、さほど日頃から交流がある訳ではない。 だがなにやら勢いが凄すぎる王者には、ストッパーがほぼ不在で、元ヤンという異名を持ちながら、色々トラブルを未然に回避しているのは、荒北の手腕だ。 そのおかげで、暴走しそうになる東堂を押しとどめてくれているのも彼で、巻島もそれなりに世話になっている。 親しいとまではいかなくても、たまにツケとばかりに、遊ばれてしまう程度には知り合うようになっていた。 「巻チャン、とめて欲しい?」 「…当たり前っショ」 「なんか手間賃くれって言いたいけど、なかなか巻チャンと顔合わせることねーしなー あ、そうだ」 何かを思いついたらしい荒北が、一度言葉を切った。 ほんの少しの間をおいて 「『荒北サマ お願い』って言ってくれたら気分いいかも」 瞬間、目を細めて電話を切ろうとした巻島だったが、東堂の暴走と引き換えならば安いものだ。 ひどい羞恥心はあるが、ならばむしろノリノリで返してやろうと、咳払いをして、巻島は幾分か幼い声を作る。 フルネームも知っているので、どうせならと唇を開いた。 「靖友さま、…お願い」 語尾に♥マークが付いているのではと思える、我ながら見事な声振りだった。 どうだと耳を澄ませば、返ってきたのは、なぜか爆笑の荒北の声ではなく、耳をつんざく絶叫だった。 「巻ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!! オレ、オレだってサマ付けで呼ばれたことないのにっ!!お願いだってされたことないっ!!」 「げ…東堂……?」 「ひどいっ!!!ひどいぞ巻ちゃんっ!!オレも、オレだって……名前で…!巻ぢゃぁぁんっ」 げしっと何やらを物がぶつかったような音がして、荒北が受話器に出た。 「わりっ 東堂への嫌がらせに、スピーカーにして会話聞かせてたら、ロープぶっちぎった…まじビビッた」 「……あー……そっちも……大変ショ……」 荒北は気分がいいから言えと、冗談交じりに言ってきたが、本命は問題行動を起こしている東堂への報復だったのだろう。 そこに自分がさらにノッて返したので、計算が狂ったというところらしい。 「えーっと…責任持ってコイツは止めるからさァ 巻チャンどうやって練習するつもりだったか教えてくんナイ?」 慌てて、セクハラっぽいとかそんなんじゃなくて、こいつ納得させるのに必要だから!と強調してきた荒北に、他意はなさそうだ。 実は自分でも、キスの練習法なんて人と回数をこなす他に、どんなものがあるかだなんて知らないとは、言えない。 「……さくらんぼの茎、結べるようになる…とか?」 一生懸命脳内を模索し、出てきた答えを呟いてみると、聞こえてきたのは 「巻ちゃん かわいいぞ!!巻ちゃんっ!!!!巻ちゃぁぁぁぁん!!オレはいまっ!巻ちゃんのその愛らしさに絶好調になった!!」 「ッセ!!人の携帯盗み聞いて悶絶してンな 気色悪ィ!!!」 のやり取りだった。 ……どうやら、まだスピーカーは解除されていなかったらしい。 聞かれてしまったと、うずくまる巻島の耳に 「巻チャン!!東堂が逃亡した!!逃げとけっ っつーか新開 正面玄関封鎖しろ!真波、各部屋の施錠させとけ!!」と叫ぶ荒北の声は、おそらく聞こえていない。 |