「なあ巻ちゃんは、いつから「オレ」と言うようになった?」 巻島の寝台の横で、寝そべりながらサイクルマガジンを読んでいた東堂が、ふと思いついたように尋ねた。 週末の特訓だといって、わざわざ箱根から来た東堂が、巻島の家に泊まってゆく回数もすでに二桁に入っていて、互いに沈黙していても 気をつかわなくて済むという心地よい間柄になっていた。 しかしそう思っているのは、巻島だけのようで、東堂は隙あらば巻島との会話を所望する。 「だって巻ちゃんがここにいるのに、喋らない手はないぜ!?」との主張らしい。 「目の前にいてもいなくても、てめェは電話してきて一方的に喋ってるッショ」 「ハッハッハッすまんね 実際の距離でも携帯を通してでも、巻ちゃんと繋がっていると、沈黙は心臓に悪い」 とよくわからない回答が返ってきていたので、巻島もあきらめて東堂が提供するネタには、それなりに回答するようにしていた。 「んー?記憶にねーなァ… 東堂はいつからだ?」 「オレは物心ついた時には、すでにオレと自称していたらしい 少なくとも5歳の時点の録画で『オレとーどーじんぱち!ろくさい!』とVサインをかかげていたな」 二本の指を出し、実際には五歳なのに六歳と主張する幼児に、周囲はほほえましく笑っただろうと想像し、巻島も口端をあげた。 「そりゃー…今度見てみてェなあ」 「そ、それはオレの家に来たいと言うことか!?大歓迎だ!! あ、でもオレの家は温泉旅館でな……」 知らない人との交流は、あまり得意でないと言っている巻島には、ゆっくりできない場所はイヤだと嫌がられるかと、東堂の語尾は沈む。 だが予想とうらはらに、巻島はかつて見たことのない輝く笑顔を見せていた。 「温泉…好きショォ… 金払っても泊まりてぇなあ オレ小さい頃、箱根の温泉に泊まって、すげぇ楽しかったんで温泉が好きになったんだよ」 「あ、いやオレの部屋だったら全然連泊したって無料だし! むしろ巻ちゃんに是非ずっと泊まってもらいたいし!!なんなら一生…」 「いや、それはねぇヨ」 「そ、そうか…風呂は希望すれば貸切用意ができるぞっ」 「おぉ…すげェなぁ…」 夢見るようにうっとりと微笑む巻島に、東堂のテンションは上がりっぱなしだ。 頭を下げて、次の長期帰省時には、無料労働力になるといえば、食事だって最高級のものを用意してくれるだろう。 風呂は、もちろん露天をふたりきりで貸切だ。 色々な妄想が瞬時に脳内を駆け巡り、拳を握る東堂に、巻島は「小学時代はまだ違う呼び方している記憶があんなあ」と呟いた。 「へ?」 「…お前が聞いてきたんショ、自分をなんて呼んでいたか」 呆れたみたいに眉根を寄せる巻島に、東堂は自分の想像が悟られていないかと慌てて手を振り、うなずいた。 「あ、うん そうかね それでは何と呼んでいたんだ、僕…かね」 東堂の脳裏で「ボク」と喋る巻島は、どこかたどたどしさがあって、東堂は脳内のその姿に悶絶をした。 「かわいすぎるぞ……!」 「…ボクじゃねェショ」 巻島がそっけなく返した一言に、ガッと立ち上がった東堂が、必死の力で巻島の両腕を掴む。 「巻ちゃん!今の台詞をもう一回言ってくれんかね!!」 「……ボ、ボクじゃねえ…よ?」 きょとんと首を傾げながらも、律儀に繰り返す巻島。 「ワンモア!!」 「なんなんだよ!ワケわからねぇにも程があんだろ!」 「だって……巻ちゃんが…ボク……ふぉぉぉぉオレはたった今!絶好調になった!!!」 「……東堂のテンションは、相変わらず掴めねえショ……」 呆れたみたいに首を振った巻島は、それまで起こしていた身を仰向けに倒れこんだ。 だがまだ言いたいことはあったようで、雑誌で顔を隠しながら 「ボク…って言い方じゃなかったんだよ」と告げた。 その後は口を噤み、東堂が「では何と? 巻島家なら私…とか?」と寝台に半身を乗り上げて探っても、巻島はその反対方向へ躰を翻し、聞こえないフリを続ける。 ムゥと唇を尖らせた東堂が、揺すっても答えようとしない巻島から手を離すと、そのまま立ち上がった。 「ならば 巻ちゃんの母上に聞いてこよう」 東堂の礼儀正しさと、見目のよさは年上にも好感らしく、巻島の母親も東堂の訪れを毎回歓迎していた。 旅館の息子と先ほど聞いて、東堂のあの愛想の良さや人交わりに臆さない態度にも、随分と納得が行った。 狼狽した様子で身を起こした巻島が、急ぎ東堂の手首を掴む。 巻島は困った顔を向けたつもりだったのだが、それがどこか頼りなげに見えて、東堂は頬を染めた。 「えっと…巻ちゃん?」 「…名前、だよ」 「名前?」 「だから、オレは小さいとき自分のことをゆーすけって言ってた! あぁもう恥ずかしいから言わせんなっ!」 なかば叫ぶように告げた巻島は、顔を真っ赤にさせて再びベッドに倒れこみ、掌で表情を覆い隠す。 『ゆーすけねぇ…おっきくなったら、じんぱちのお嫁さんになるショ』 ………ん? ―――脳内に、ふと甦った小さい頃の会話。 白い肌と栗色の髪をしたその子は、高級旅館という場所柄周辺で遊ぶ場所もなく、静かにしゃがんで鯉を眺めていた。 「一緒に遊ぼう!」と声をかけた尽八に、少しはにかんだような笑顔が、すごく可愛くてその子が帰ってしまった後も、 自分は「大きくなったらゆーすけと結婚するのだ!」と言い張っていた。 小学生の半ばごろ、ゆーすけというのは男の名前であり、同性同士の結婚は不可能だと知って、その淡い初恋は散った。 …散ったはずだった。 「なあ、巻ちゃん さきほど小さい頃箱根の旅館に泊まったと言ったな…その旅館で大きな池と鯉…を見かけた記憶は残っていないか?」 「…ショ?」 何かを探るみたいな、落ち着いた声に、巻島も隠していた手を外し、東堂へと向き直った。 「あったかもしれねぇなあ…」 それなりに裕福である巻島家が泊まるのであれば、値の張った高級旅館のはずだ。 気品や風格を大事にする気風は今も残っており、池や手入れされた和風庭園などはつきものだろう。 「では巻ちゃん この言葉に記憶は? 『裕介ねぇ…おっきくなったら、尽八のお嫁さんになるショ』」 挙動不審になった後、静止した巻島は見る間に真っ赤になった。 「えっ……… ちょっ……おまっ……なんでそれ…………って……あ……ジンパチィ!?」 さぐるような視線を投げかけていた東堂に、巻島の眼差しも吸い寄せられる。 首を振って、潤ませた瞳のまま呆然と東堂を眺める巻島に、東堂は嬉しさを隠しきれない様子で手を伸ばした。 どうやら、東堂尽八の初恋はまだ終わっていなかったらしい。 ゆっくりと手を伸ばした東堂は、その存在を確かめるように巻島を抱きしめ、耳朶に触れんばかりの距離で「裕介」と囁いた。 |