【東巻】短編二つ

その1
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巻ちゃんは、人に対して警戒心丸出しの態度をとるくせに、日常生活では無防備すぎる。
そんな相反する事実を言われ、どう返すべきなのか、迷った巻島はストローの先を噛んだ。

今日のクライムは、レースではなく、二人のなんとなく取り交わした定例行事だ。
試験前の部活動が禁止になる直前の週末は、二人でどこかの山道を登る。
空は晴天で、頂上付近には誰もおらず、石の原型を生かし組み立てた野疎なベンチと、種類の偏った自販機があるだけで二人きりだ。
たとえスポーツ飲料と、お茶とコーヒーしかない自販でも、熱くほてった体には、冷たいドリンクは最高のごちそうに代わる。

勝負に負けた巻島が、スポーツ飲料を奢ってやれば、東堂は眩しい笑顔を返した。
同じペットボトルを買って、ベンチの横に座れば心地よい風が抜ける。
見下ろす街の光景は、運動とは異なる爽快感をくれて、巻島のお気に入りの一つだ。

ウェストポーチに入れていた、マイストローを挿して、甘い液体を喉へと流せば、ごくりと動く。
それを眺めていた東堂が、何かいいたげに唇を開き、それでも何も言わず向き直った。
「…何ショ?」
言いたいことがあれば、率直に告げる東堂なのに、珍しい。
そんな気持ちもあって促せば、なぜか東堂の頬は紅潮していた。

「ま…巻ちゃんは、自分がエロいと自覚すべきだな!」
「………はぁ?」
眇める勢いで、睨みつけてしまった自分は絶対に悪くない。

「そのファスナー!ヘソ近くまで開けているではないか!!胸だってほとんどさらけ出しているに近い!」
「……お前ェだって、似たようなもんショ」
「オレはいいのだよ!だが巻ちゃんはいかん!」
「何無茶苦茶言ってんだよっ!」
「それだけではないぞ!その座り方はなんだ!」
特に意識せず、腰掛けたベンチの前に並んだ両足は、ぴったりと揃えられている。
巻島の脚は、その長さを持て余し少し斜めの位置に流されていた。

「女子かっ!!」
タンッと音をたてて、ペットボトルをベンチに置いた東堂は、巻島の前で屈むと、両膝に手を置いて、むりやりその脚間を広げさせた。
別に普段から、こうやって据わっている訳ではない。
レース後のテントなどでは、東堂が今、開脚させたような姿勢でいることだってよくあるのだ。
ぽかんと見返すと、巻島の両腿に挟まれるように立っていた東堂は、慌ててその場所を退き、
「い、今のは無しだ!」とまたその両膝を閉じさせた。
東堂の大きく洩らした吐息は荒く、まるで登頂直後のようで、引いていたはずの汗をまたかいている。

「おまえ…一体何がしたいっショ」
「いや、だから…巻ちゃんが……」
普段であれば、わずかな差でも先にゴールしたことを、これみよがしに勝ち誇る東堂が、わたわたとしているのが面白い。
「東堂ォ…こっち向けよ」
からかってやるつもりで、巻島はペットボトルからストローを外し、わざと鼻にかかった甘い声で、名前を呼んだ。

飲み口に、チュッと音をたて軽く口づける。
半濁した白い液体が、こぼれすぎぬ程度にペットボトルを傾け、ぴちゃぴちゃと音をたてて啜ってやれば、効果はさらに高まるだろう。
少し溢れて、唇の端からこぼれた雫を、赤い舌先で拭う。
「…エロいってのは、こういう感じかァ?」

ごくりと喉を動かした東堂は、魅入られたように巻島の髪から目へ、目から唇へ、唇から舌先へと視線を動かす。
餓えた獣のような目だ、と巻島は思った。

「それが…無防備だというのだ」
瞬時に表情をそぎ落とした東堂に、巻島は何度かまばたきを繰り返す。
「え…」
低くうなるように声を紡ぐ東堂は、巻島の顎を強引な力ですくい、上を向かせた。
「知らないのか、巻ちゃん 男同士でも快楽は得られるのだぞ?」

確か以前、似たような会話を聞いたことがある。
その時は『快楽を求めるのに、理屈は不要だ』などと東堂は言ってきた気がする。
それが、今の状況にも関わっているのだろうかと、巻島は警戒のないままぼんやりと見つめた。

チッと小さく舌を打った東堂に、獰猛な匂いが立ち上る。
礼儀正しさに包まれ、怒ることがあってもそれを失わない東堂には、稀有な行動だ。
いらただしげに、髪をかきあげ何もかも見透かすような視線が、鼓動を跳ね上げさせる。
急に居心地の悪さを感じた巻島が、そわそわと身じろぎを始めると、東堂は巻島の目前で影を落とした。
逆光で見下ろす東堂は、先ほど閉じさせた両膝を再び割って入り込み、巻島の中心に腰を寄せた。

「知っているか巻ちゃん オレはもう」
乾いた唇を、濡れた舌で湿らせ東堂は吐き捨てるように言う。

「想像の中で、何度もお前を犯している」

「……は? おまっ……何言って……」
泣き出しそうに身をよじった巻島を見て、東堂は憤りとも、そそられたとも取れぬ色を深めた。

本来ならば、腹を立ててこの場を去ってもいい状況だろう。
だがあまりに驚愕が大きすぎると、人は唖然とすることしかできないらしい。
ごく自然に吸い寄せられた東堂の唇を、巻島は振り払うことができなかった。

まだ何もわからないという顔をして、ただ東堂を見上げる巻島に、苦笑交じりに東堂は言う。
「……かわいそうだな、巻ちゃん」
「な、なにがっショ……」
「自分の淫らさも理解できぬまま、山神に食われようとしているのに、それすら気づいていない」

開けられたファスナーの隙間から、東堂が鎖骨へと歯を立てる。
身を竦ませた巻島が、弓なりに背をしならせると、東堂の目は楽しげに細められた。
「ひぁっ…やっ……」

思わずといったふうに、巻島が東堂の髪を握り、遠ざけようと体をそらせば、かえって誘うように胸元は開かれた。
「言ったはずだ巻ちゃん それもこれも巻ちゃんがエロいのが悪い」

山頂は、いまだ二人きりだ。



その2
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「聞いてくれ」
「断る」

一言で切って捨てた荒北が、すばやく室内から出ようと立ち上がった瞬間、その腰に東堂はしがみついた。
「いいから聞け!」
「断るっつってんだロ!てめェがそんなツラして何か言い出すのは、オレが美形過ぎて怖いとか巻ちゃんの話題のどっちかなんだよ!」
「おぉすごいな靖友 尽八の顔からもうそこまで読めるのか」
パチパチと、パワーバーごと拍手をする新開に、荒北はうんざりを隠さない顔を向けた。

「わかんねぇやつの方が どーかしてんだろ」
「なら尽八がここで諦めないのも、わかってるよな」
軽くウィンクをきめた新開は、相談に乗らずとも語るぐらいさせてやれと、告げている。
自身がスランプに陥ったとき、その能天気ともいえる明るさで励ましをくれたからといって、手前はこのアホに甘いと荒北もしぶしぶ腰を落とした。

「実は…オレは巻ちゃんと抜きつ抜かれつの関係が最高だと思っていたのだが…そうではないと気づいてしまった…」
なんでテメェは巻ちゃんが絡むと、表現が性的なんだよとはもう突っ込まないでやる。
以前、確かに巻島は独特の雰囲気を持つ人間ではあるが、どこにお前はそんなに惹かれたんだと尋ねたら、真面目な顔をして全力で
「快楽を求めるのに理屈は不要だ!」と叫ばれた記憶があるからだ。

「オレは…巻ちゃんと『待て コイツゥ!』『待たねぇッショ尽八ィ』のやり取りもしてみたい!!」
「よし聞いた 解散」
「荒北!きさま友人の悩みを聞いてその返答かっ!」
「オレらがどーこーできる問題かよ!巻チャンに土下座してでも頼んで来い!!てめーらには関わりあいたくねーんだよ!」
「オレの巻ちゃんを気軽に巻ちゃんと呼ぶな!!」
「ああああもうウッゼェッ!!!」
「ウザくはないな!! オレは巻ちゃんに『東堂ォ…電話こなくて寂しかったショ』って言われてみたいだけだ!」

我ながら、コントかよと思うやり取りだが、東堂はどこまでも真剣だ。
めんどくせェというのと、嫌がらせを兼ねて荒北は携帯を取り出し、『巻島』を呼び出した。
数回のコール音の後、訝しげに「荒北?」との声が響く。

スピーカーにもしていない、小さな声だが、東堂の耳には拾えたようで、どういうことだと無言で荒北を睨みつけるが、予想の範疇だったのでそれは気にしない。
『あ、巻チャァン?オレ荒北』
『クハッなんショそれ 東堂のマネかよ?』
『まぁね でさぁモノは相談なんだけど 』
『うん?』
『東堂の電話 着拒してくんねェ?』
さらりと言い捨てた荒北の言葉に、巻島が反応するより早く殺気の篭った怒号が響く。

「荒北ァァァァァァ!!きさまっ!!!何を巻ちゃんに!!!」
「うっせーな!!テメーが巻チャンに電話しねぇなんて無理だ!だから巻チャンの方から拒否してもらうのが一番だろうが!!」
「巻ちゃん!!やめて!やめてぇぇぇぇぇ!!着拒なんてされたらオレ、今からでも千葉に向かって玄関前で解除されるまで土下座するからぁぁ!!!」

東堂から携帯を護ろうと、荒北が頭上に掲げたドサクサで、スピーカーがオンになったらしい。
やり取りの全てが聞こえていたらしい巻島の、呆れた声が割って入った。

『えーっと荒北…悪ィけどコイツまじでやりそうだから、パスな 真夜中に家前で土下座されても互いに困るっショ』
補導対象にでもなって、部活動に影響があれば最悪だとの含みを返されれば、なるほどと納得するしかない。
一つの爆弾が回収されたかと思えば、次に爆弾を落としてきたのは巻島の方だった。

『それにしても箱学は大変だなァ 東堂がオレなんかにこれだけ電話かけて来てるんだから、お前らとか彼女とか、ストーカーレベルでかかって来てるんじゃねーの?』
軽く笑いを含んだ、からかうような声とは裏腹に、聞いていた者たちは固まった。
すかさず荒北の手から携帯を取った新開が、もう一度確認の為にと聞き返す。

『あ、裕介くん?新開だけど… すまない靖友が今聞きそびれてしまってね、もう一度言ってくれないか?』
全員がはっきりとは聞こえていたのだが、『まさか』という思いが強すぎて、そこで脳波が停止しているのだ。

『だから東堂の彼女とかお前らとか…電話やメールの相手 大変だなあって』

『あ、うん…どうも…ありがとう 巻き込んですまなかったお休み』
『?なんかよくわかんねェけど、もういいのか じゃ、オヤスミ』
まだスピーカー状態のままだった携帯は、プツッという音の後、切断された。

「…えーっと …つまり?」
「裕介くんは尽八の電話が普通の行為で、オレや仮定の彼女にはもっと執拗に電話やメールを掛けていると思ってるってことかな」
「ねぇわー… あの電話が通常運転って巻チャンも…鈍すぎだろ…」
「おーい尽八ー?」

切れたままの荒北の携帯を、呆然と見つめていた東堂はすくりと立ち上がった。
「……ちょっと千葉まで行っ」「行かせねェよ!?」
「コントか!」
「それはオレがさっき突っ込みたかったセリフだっつーの!巻チャンが言っただろうが真夜中フラついて補導でもされたらどーすんだヨ!!」
「オレは臆せず立ち向かうのみだ!東堂尽八 愛の為に走ると!!」
「アホか!!!その愛の為にレギュラー降格どころか、インハイ辞退になったらどーすんだ!!」
「そうだぞ 落ち着け尽八」

トラウマを乗り越え、常に動じない落ち着きを持った新開は、まず勘違いを正すべきだと伝えた。
「裕介くんの思考は、(他の学校の知人程度でしかない自分にこれだけ電話をしてくる→きっと彼女にはもっとすごい電話をしているに違いない)という流れだ」
「あーつまりこのバカがきゃっきゃウフフ望む以前に、まったく自分が特別ポジションって自覚ねーってことか」

「オレの思いが…巻ちゃんに伝わっていない…だと…」
愕然と膝をついた東堂に、さすがの荒北も同情をする。
「まあ…ねーよな あの鬼電受けて、それを標準基準にするっつーのもすげーワ」
「それよりも尽八…おめさん、裕介くんにいまだ告白をしていないのか」
意外だな、と目線を送る新開に東堂は全力で首を振った。

「したとも!何度だってオレは思いのままを告げている!」

たとえばと切り出したのは、二人きりのクライムレースで気持ちよい青空の下
「巻ちゃんがいるだけで、他になにもいらなくなるな!」
または豪雨で山道が通行止めになり、巻島邸で何をするともなく過ごしながら
「こうして自転車に乗らずとも、巻ちゃんといれると幸せだ」
白地に青ラインの自転車グローブを箱学のイメージだったから、なんとなく買ってしまったと譲ってくれた時は、感極まって、抱きついて
「ありがとう! 誰に何をもらうより嬉しいぞ」
とまでしたと、東堂はうつむいたまま語る。

ただのアスファルトの道路が、風を切る、空が待ち構えた空間になり、走るだけの自転車は、跳ねて、ぶつかり、躍動をする自分の分身へと変わる。
追い駆ければ交わされ、抜いたと思えばまた抜き返される。
そして、自分の心情を写し取ったかのように、一心不乱にタイヤは廻り、もうこれ以上はないという地点までくれば、それが限界だ。
気が付けば、その地のもっとも高い場所にいる。
巻ちゃんといると、どこまでも世界は広がっていく。
だから、オレにとって巻ちゃんはライバルなんて言葉だけじゃ片付けられないと、東堂は呟いた。

「今の尽八の言葉を、そのまま伝えてみるのが一番効果あるかと思うけど」
「もう言った」
「…それを総スルーって、ある意味すげーな」
「………………罰ゲームで、巻ちゃんにキスしてもらったこともあるのに……」
部屋隅でついに膝をかかえだした東堂だが、これはこれで問題発言だ。

「キスゥ!?」
「やるな尽八!」
ヒュゥと短く口笛を吹いた新開に、東堂はそれでも幸せそうに「…おでこにだけどな…」と返した。
「…で、そこまでさせといて何で気づかねーの?」
「…巻ちゃんは……オレにもダメージだけどお前にもダメージだよな?そんなところまで張り合わなくてもいいっショって言ってた…」
つまり、巻島裕介的解釈は、東堂は身を張って嫌がらせを体現した…ということになるらしい。

「そこまで曲解できるのも、ある種の才能だな」
新しいパワーバーを開けた新開は、バナナ味を咥えながら何事かを考えている。
「口で言ってもダメ、メールもダメ、電話もダメ……あとは…」
「力づくか!?」
その手があったかと、向き直った東堂にちげーだろと、後頭部に荒北の拳が入る。
「人伝えとか、そういう手段だよ 自分で聞いたものを曲解するのだったら、誰かが伝えればいいんじゃないかな」

「…とりあえず…小野田チャンは巻き込みたくねーなァ…オレから直接巻チャンか?」
「じゃあオレは迅くんに経由してみるか」

当初、かかわりあいたくないと言っていた荒北も、根本は友人思いで、渋々と対策を練る。

それからしばらく巻島は、東堂と次に直接出会うまでの期間に、なぜか数多くの人間から『気づいてやれよ』の謎のメッセージをうけることになったのである。
「巻ちゃん 好きです!」
「…なんか、他のヤツからいっぱい聞きすぎて新鮮味がねえショ」
「巻ちゃん………」
「あーもう!捨てられた犬みてーな面すんな! うん、まあ…お前の言う意味…やっと…わかったから…考えてみるってあたりで今日は妥協しろ」
「巻ちゃん!!」

東堂から顔を背けた巻島の顔は、照れくさそうで、誰よりも優しいものだったが、当事者たちは気づいていない。