【東巻】最熱リスタート



東堂と巻島の、互いに自覚していなかった友情以上の淡い気持ちは、巻島が渡英したことで,、終わりを告げたはずだったのだ。

なのに、どうしてだ。
ホテル室内の壁際に、東堂の両腕で背を押し付けられた巻島は、困惑のままそっと東堂を押し返す。
指先で触れたその体は、自分の知っていた頃より厚みを増して、なにより自分より低かったはずのその頭も、見下ろしてくる位置にある。
プロのレーサーとして、たゆまぬ体作りを続けているのだろうと見上げれば、そこには熱情とまぎれもない欲望をたたえた東堂の瞳があった。

渡英した巻島は、趣味というには本格的な自転車競技こそやめなかったが、プロではない。
一方東堂は、卒業後しばらく噂をきかないと思ったら、ある日いきなりプロレーサーとして登場し、しかもそのヒルクライムで1位を取っていた。
いかにもあいつらしいデビューだと、ネット配信のニュースを見ながら笑った記憶は、巻島の大事な宝物のひとつだ。

友人としてのメールやスカイプ、たまにくれていた手紙の数も減った頃、巻島は25歳になっていた。
イギリスでの兄の仕事は落ち着き、そろそろ日本での活動に拠点を移すかとの、一時帰国だ。
本来なら自宅に泊まるはずだったのだが、ついでに溜まりに溜まっていた代休をもぎとり、懐かしい箱根のヒルクライムに申し込んだのは、
感傷もあったのかもしれない。

レース前後一日は休みたいと、二泊三日でホテルを予約し、ホテルの許可を貰って地下駐輪場で、ロードレーサーを組み立てれば、
もう明日の準備は不要だ。
せっかくだから、この道のりを、事前に下調べをかねて走っておこう。
そんな理由を内心でつけずとも、最後のインターハイでの思い出深い地は、レースとは関係なくもう一度見たい場所だった。

肩より長め程度に切りそろえ、栗色に戻した今の地毛では『山頂の蜘蛛』の風貌にふさわしくないかもなと、巻島は一人笑った。

長く続く、傾斜のある山道。
緑が多く、吹く風が心地よい。まだふもと近くの道のりでは、ダンシングも不要で、快適にペダルを廻すことに専念ができる。

サイクリングの心持で、楽しみ走っていたら、すぐ後ろに一人、ロードレーサーが付いていたと気づく。
競いたいわけではないので、わき道にずれて譲ろうかと思ったが、せっかくの想い出の場所を他人に取られるのも、不本意だ。
ならばと多く踏み込み、距離をあけようとケイデンスをあげれば、後ろの男も同じように回転をあげた。

「クハッおもしれェ」
学生の頃のようなひたむきさは消えたが、今でもレースは嫌いじゃない。
あのギリギリまで心臓が圧迫され、息が詰まるほどの緊張感は、日頃の生活では、けして得られないものだ。
山の斜度も角度を増し、そろそろ本腰をいれるかと、車体を揺らし始めたところで、訝しげな…それでいてはっきりと確信を持った声が響いた。

「巻ちゃん!」

耳にした瞬間、時間がとまったかのように感じた。
騒がしかったはずの声は、成熟した男のものに変化をしているが、それでもよく馴染んだものだ。
ペダルを少し休めただけなのに、後ろにいた男はすぐに、音もなく静かに追いついた。
「……やはり、巻ちゃんか……まさか、と思ったぞ」
「…と、東堂!?」

――なぜ、こんなところに?
明日のレースは、難所ではあるが素人向けのもので、プロの東堂に出番はないはずだった。

「オレの地元開催だからな 特別ゲストとして招かれている」

考えてみれば、当たり前の話だ。ゲストとして招かれていなくても、東堂にとっての拠点は箱根なのだから、いつすれ違ってもおかしくはないのだ。
もう会うこともない人として、心構えをしていなかった困惑のまま、気づけば巻島のホテルの部屋に二人はいた。

汗まみれのままでは気持ち悪いと、先にシャワーを浴びて、東堂にバスルームを譲った巻島はぼんやりと、ベットに腰をかけていた。
『久しぶりだな』『元気だったか』『お前は変わってないな』
…そんな友人同士のやり取りはないまま、何故、こんなことになったのだろう。

「巻ちゃんバスタオルを一枚借りたよ ありがとう」
カチューシャを外し、髪先から水滴をしたたらせた東堂は、巻島の記憶を上書きする艶やかさをもっていた。
もともと華やかな人間ではあったが、それが騒々しさと結びついていただけに、今の東堂は男の色気が数段に勝っている。

一瞬、目が合ってしまった巻島は、当てられたように頬を上気させ、慌ててうつむいた。
そんな巻島の様子を眺めた東堂は、何も言わず、フと小さく口端をあげる。
だがそれでも、お得意のトークは始まらなかった。

(…な、なんだよこんな東堂、オレは知らねェ…!)

ドキドキと早まる鼓動を悟られぬよう、ベッドの上、枕をかかえて壁際にまでずれれば、東堂はさりげなく、同じベッドの縁に腰掛けた。
学生時代の交流は、いつも東堂が話しかけてくれていたので、沈黙のまま見つめてくる東堂に、どう反応すればいいのか、わからない。
「お、お前変わったな!背ェ伸びたし、えっと…」
男くさくなったと、同性の友人が表現して良いものだろうかと、巻島が言いよどむ。

「オレも、最初はその髪のせいで巻ちゃんに気づけなかったよ」
東堂の指が、肩の辺りで留まる巻島の髪先をそっと掬う。
鍛えられ、硬くなった指先の肌が、巻島のやわい首筋の皮膚に触れる。
その感触に馴染めなくて、巻島はぴくりと揺れた。
「あ、あっち行ったら水のせいか、髪の痛み激しくてよ、何年かで染めるのやめたんだ」

避けているとは思われぬよう、そっと首を振って東堂の指先を外そうとする、巻島の思惑は外れた。
ずれた東堂の手のひらは、そのままうなじへと動き、かえって距離は近くなってしまう。
「だけど走りを見たら、すぐにわかった …まるで夢のようで、声をかけられなかったけれど」

つと滑らされた東堂の指は、シャツの内部の背筋へとたどる。
ゾクゾクと訪れた感覚が怖くて、退こうと下肢でベッドの上を後ずさる巻島。
それをおいかけ、東堂は寝台に乗り込むと、逃げられぬよう両腕で巻島を、壁際へと囲い込んだ。

「ち、近ェよ!」
「…そうだな」

―――頼む、何か喋ってくれ。
ごくりと喉が嚥下したのは、緊張からだ。
濡れた髪で、前髪を下ろした東堂は、自分の知っている東堂とは違う。
なめらかな胸板は厚みをまして、意地でも弱みをみせたくない巻島の細い体を、威圧するかのようだ。
上半身は動けなくても、下肢はまだ自由だ。
無意識に内腿をすり合わせ、立ち上がるタイミングを計っていると、東堂はその両脚の内側に入り込み、巻島を開脚させた。

「…っ!おまっ……何かんがえ……」
心臓が跳ね上がり、言葉が続かない。
けわしげに眉根を寄せて、必死で東堂を睨みつけても、東堂の涼しげな余裕は変化がなかった。
「こうでもしないと、巻ちゃんはまた逃げるだろう?」
耳朶近くに寄せた唇が、低く囁く。
何のことだと首を振っても、東堂は確信に満ちた目で見つめてくるだけだ。

「オレと巻ちゃんの間にあったものが、友情だけだったとは…言わせんよ」
吐息が交わせるほどの近くで、巻島の狼狽をまるで楽しむかのように、東堂はゆっくりと言い連ねる。
「し、知らな……」
「イギリスに行って、連絡を減らしていったのは計画だろう?…オレから逃げるための」

違う、そうじゃない。
逃げたのは本当だけれど東堂からではなく、大事な友人としての、ライバルとしての立場を崩したくない自分の思惑から、逃げたのだ。
「それで諦めようかと思っていたのに……巻ちゃんはこうしてオレの前にまた現れた」
どういうつもりだ、東堂は何を言いたいのだと、動じた巻島の身は、かわいそうなぐらい震えている。

東堂の台詞ひとつひとつが、あやうさを含んでいるのは解った。
これ以上言葉を続けさせれば、この探るような視線を振り切れなくなってしまう。
「い、今の東堂は、寡黙だな! お前そっちの方がかっこいいショ」
乾いた喉に、空気を押し込み、無理やりに話題を変えさせる。

東堂の壁についたままの手は、血管が浮き出て、餓えた獣の捕食寸前みたいに、切羽詰った様子だ。
真剣なふりをして、ふざけている東堂なら、昔のように「そんな事はないな!」と反応してくれるはずだった。

「そうかね …ならば黙ろう」

静かなベッドルームに、痛いほどの沈黙が落ちる。
喋る代わりにとばかり東堂は、行動で巻島への追及を始めたようだ。
強引な力で、巻島の両頬を包み、顔を上に向かされる。
「待っ…東堂!!」
「待たんよ…待っていてオレは、巻ちゃんを一度は逃がしてしまった」

怖い。
――怖いけれど、自分の頬に伝わるぬくもりは、酔わせるように心地よい
吊り上げた東堂の眼差しは、まるで自分を射抜くようだと、巻島は泣きたくなった。

「好きだ、巻ちゃん」
「あ―― と、東堂」
「…今度はもう、逃がさない」
甘い響きが、巻島の心に届く。何か言おうとしても、喉は絞られたみたいに焦けついて、言葉を紡げなかった。

シーツを握り締めた巻島の拳は、白く小さく震えていた。

「好きだ」

囁くように再び繰り返された訴えは、まるで誓いのようだ。
真摯で熱く、巻島の心の奥にしまいこんだ、感情を引きずり出してくる。
こんなに辛くて、心臓がひび割れそうなのに、幸福な感情が溢れてくるのはどうしてだろう。

時間をかけて落ちてくる、東堂の薄い唇からもう逃れるすべを思いつかなくて、巻島はゆっくりと目蓋を落とした。
きしんだ寝台の音とともに重ねられたキスは、めまいを覚えそうなほど凶暴で、巻島に支配される愉悦を与えた。