【東巻】
言わせたい


スタート前の指定された場所は、すでに多くの人が集まりかけていた。
クライムレースに限らず、ロードレースのスタートは早い者勝ちの場所取りで、なかには自転車だけをそこに置いて離脱しているものもいる。

巻島が到着した時点では、すでに立てかけてある自転車横に、ほとんどの持ち主は戻っており、その筆頭に見慣れた制服姿があった。
きょろきょろと、せわしなく首が動いているのは、自分を探しているからだ。
それがウヌボレではない証拠に、巻島の姿を確認した東堂は、輝く笑顔になって「巻ちゃん!ここだ」と手を振った。

東堂のその表情は、気に入っているものの一つだけれど、目立つものが苦手な巻島は、気づかなかったフリをして、うつむき人影に隠れようとする。
だが己の視力に…本人曰く「オレが巻ちゃんを見間違えるものか!」の絶対的自信がある東堂は、それを許してくれない。
「巻ちゃん!総北高校・巻島裕介!! オレは、東堂尽八はここだぞ!!」

東堂の顔を認識していないものでも、近場のヒルクライムではほぼ上位を独占している東堂の知名度は抜群だ。
「あれが山神?」
「東堂をこの距離で見たのは初めてだな くっついていけば良い位置ねらえるかも」
などのざわめきと一緒に、親切な日本人は無言で巻島に、『君を呼んでいるよ』と投げかけ、東堂へ続くルートを開けてくれる。

「久しぶりだな 巻ちゃん!!」
「…先々週会ったばかりっショ」
ついついそっけなく、吐息のような返答にも、まばゆい東堂の笑みは消されない。
「そうか!すまんね 巻ちゃんと競えると思うと楽しみで長く感じたようだ!」

――ここでオレもだ、素直に答えられたら良いのに。
表情筋を使い慣れない自分は、多分呆れたような顔で固まっている。
レースでスタート場所の横入などという、マナー違反な真似をさせてしまったことも、周囲に詫びなくてはと悩んでいると、
東堂はそれを見越すように、フゥとため息をついた。

「巻ちゃんまた余計なコトを考えているな! 確かに通常スタート順は、早い者勝ちだ だがオレは実績があるからな!
最前線を係員が用意しておいてくれたのだよ」
だから自分のライバルである巻島裕介も、当然この位置にあるべきなのだと、平然という東堂に、巻島は頭を抱えた。
「お前に用意されてても、オレに用意されてる場所じゃねえっショ!」
「ハ!たとえそんな事を思う奴がいても オレ達の走りを見れば、引き下がるだろうよ」

傲慢なまでの言葉に、カチンと来た者もいただろう。
だが周囲のねめ付けをものともしない東堂は、巻島だけを見て、嬉しそうに続ける。
「楽しみだな巻ちゃん!今日はオレが勝って、命令を聞いてやるぞ!」

聞くともなしに会話を聞いていた周囲の眉根は、『言い間違いではないのか?』と無言で寄せられた。
だが今のは、まさしく言葉通りの意味で、何度目かのレースで互いに決めたものだ。

すでに東堂は自分を巻ちゃんと呼び、一日に来るメールの数は二桁を超えている。
富士山でのヒルクライムがあるという情報を聞き、参加を迷っている巻島に、申込の前日に東堂は連絡をよこした。

「元気かね 巻ちゃん!次の富士山のレースはどうするかい?」
「あー…ジュニア全日も近いから、迷ってるっショ」
「参加をしなくても、どうせどこか山道を走っているのだろう?だったらオレと競うべきだな!」
「クハッ…勝手なこと言ってんな」
結局東堂の勢いに押され、遠征といっても言い場所まで出向く流れになってしまう。

互いに申し込みをすると決めたのだから、もう話は終了かと、話題が途切れたところで、東堂が囁くように呟いた。
「…なあ巻ちゃん レースに勝った方だけが快楽を得るより、互いにもっと気持ちよくなろうではないか」
「……お前の言葉、なんかエロ親父みたいショ」
「エロくはないな!」
即座に断言をかえしてきた東堂だが、今思い返してみても、普通に官能的な台詞ではなかろうか。

「まあ深くは追求しねえでやるよ で、互いにってどうするんだ?」
「勝った方はそれだけで充分に、気分がいいだろう?だから負けた方が一つ、勝者に命令をできるんだ」
「…おかしくねェか、それ?普通は勝った方が命令だろ」
「それではつまらんよ 単なる勝ち逃げだ オレは巻ちゃんと、勝っても負けても楽しみを分かち合いたい」

すばらしいアイディアだろうと、自慢げな声がついおかしくて、口端が自然と上がった。
「そういうのも、悪くないかもなァ」
「ならば決まりだな!オレたちのレース後は、勝者が命令を聞くと」

それ以来、あらためて取り決めをしなくても、負けた方がくやしまぎれに、色々とオーダーを重ねた回数はもう覚えていない。
たいていはジュースをおごれだの、クリートカバーを交換しようだの、他愛もないもので、今日もそんな所だろうと、巻島は「命令されるのはオレっショ」と返す。

周囲の困惑顔がますます深まり、なんだか二人だけの秘密を共有しているようで、巻島は少し嬉しい気分になる。
なお、二人の会話を聞いていたもの達は内心「Mプレイ…?」という不穏な想像をしていたのだが、さすがに誰も口には出せずにいた。

ゴール直前、山に愛された東堂にとって信じられない不運なことに、ロード脇の木の枝が折れて、一瞬自転車に絡まりかけたことで、今回のレースは巻島が勝利した。
「ま、運が悪かったな」
「くっそぉぉ! 巻ちゃんもう少し嬉しそうな顔をしたらどうだ!」
「…運で勝ってもなぁ… ま、それでも勝者の余裕でお前のオーダー、聞いてやるっショ」

わざと鼻先でフフンと笑ってやれば、タオルに顔をうずめた東堂が、据わった目で巻島を見返す。
今日のレースは地元の後援も強く、レース後選手たちには無料でドリンクやら軽食がふるまわれているので、おそらく奢れというオーダーはない。
さてそうなると、何を言ってくるのだろうか。

ふもとのキャンプ場の施設も開放されているので、シャワーを浴びれるのが巻島にとっては一番嬉しいことだった。
さすがにドライヤーまでは望めず、腰にタオルを巻き、濡れたままの髪でブースを出れば、東堂の喉がごくりと動いた。
「巻ちゃん…いかんよ…」
東堂は手にしていたバスタオルで、自分を拭かず巻島の頭に覆いかぶせる。
「そんな扇情的な姿で出てくるなんて…!危険すぎる」
ワシャワシャと、髪を乾かそうとしているのか、かき乱そうとしているのか理解しがたい東堂の動きに、巻島は眉をひそめた。
「…たまにお前が何言ってるかわかんねェよ」
「解らない巻ちゃんがおかしいのだよ! 巻ちゃんは自分がエロいと認めるべきだ!!」
「…それがわかんねぇっつってんだ! お前の趣味が変なんショ!!」

東堂が他の男がいる場所で、巻ちゃんがシャワーに入るなんて危険だと言い張ったせいで、二人でブースに入ったときはもう誰もいなかった。
しかし二人きりとはいえ、誰が来るのかわからない場所で、東堂の理解不能の怒鳴り声につきあえるほど、巻島も大人ではない。
きびすを返し、とっとと服を着ようと出口に向かう巻島の腕を、強い力が戒めた。
「…離せよ」
東堂は暴力沙汰をふるう男ではないが、それでもたまに子供のように、振舞うことがある。
天に愛された人間らしい、高慢な無邪気さとも傲慢さともいえるその行いは、今は巻島に向けられていた。
ふと何かを思いついたらしい東堂が、いっそう強く巻島の腕を引くと、壁へとその背を押し付け、両腕で逃げ道をふさぐ。
近すぎる距離に、落ち着かなくて目線を逸らせば、それを追い駆けるように東堂はいっそう距離を縮め、顔を寄せる。

「巻ちゃん 今日のオレの命令は、巻ちゃんが自分をエロいと認めることだ」
しんと静まり返ったシャワールームに、低い声が響く。
「……いやマジで、お前…何言って……」
馬鹿馬鹿しいと切り捨てるには、東堂の声に含まれている情欲の色が怖い。

近すぎる位置で、東堂の吐息が首筋にかかって、巻島はその慣れない感触に身を竦ませた。
「だ、だいたい認めるって何すれば良いっショ!」

激しく脈打つ鼓動と、怯えを悟られぬように睨み返せば、東堂はふと笑った。
「何簡単なことだ 『自分は、巻島裕介は エロいです』と言ってくれればそれで構わんよ」
「………脳みそ湧いてんのかよ」
「おや巻ちゃん、ルールを破るのかね?」
冗談めかして言い捨てて、早くこの場から逃げた方が良いと、脳内の何かが警告をしている。

それでも巻島の矜持が、諾と頷かせることをよしとしない。
キャンプ場の施設ではあるが、それなりにきちんとしているシャワールームのタイル壁が、背中に冷たかった。
「ふむ…ならば、教えなければならんな 巻ちゃんがどれだけ官能的か」
出口に遠い方の手のひらが、囲いを解いて巻島の首筋へと触れる。

指先の硬い皮膚が、なぞるように顎下からうなじへとゆっくり動く。
信じられないみたいに、目を瞠る巻島を眺める東堂は、嬉しそうだ。
「ちょっ…おまっ……何してるっショ」
「仕方があるまい 巻ちゃんのためだ もしオレがいない場所でも、そんな無防備な姿を晒し続けていたら…シャレにならんからな」

くらり、と眩暈がしたのは、東堂の言葉がバカらしかったからだけではない。
囁くように畳み掛ける声が、昏く、それでいてどこか甘かったからだ。
だからといって、こんな誰がいつ、入ってくるのか解らぬ場所で、流されてしまうわけにはいかない。
決意をうながすように、明かり取りの天窓から、近寄ってくる複数の声と気配がした。

鼓動が高鳴り、頬が上気するのを気取られぬよう、うつむき小さく息を呑む。
小さく唇を開きかけては、噤むという行為を繰り返す巻島を、東堂が訝しげにみやる。

――やましいことはなくても、こんな状態を誰かに見られるよりマシだ!

自分を鼓舞した巻島が、乾いた唇をゆっくした舌でたどり潤せば、東堂は息を呑んだ。
「……ゆ、裕介は……エロい…ショ……」
「!!!!!」

飢渇を沈めるように、乾いた息を飲み込んだ東堂の喉が、ゴクリと動く。
嘘だと叫びたいぐらい、色めいた自分の囁きにのぼせあがり、巻島の涙が睫毛に滲む。

薄暗いシャワールームに、ピチャリと水滴が落ち、静寂が続いた。
近づいてきていた外の声は、目的の場所が違ったらしく、また遠ざかっていく。

「ま…きちゃん……」
「も、もう言ったっショ! これでルール破ったとか言わせねえ!」

自分で無理やり言わせたくせに、東堂は巻島の行動を予想していなかったらしい。
壁に片手をついたままの東堂は、信じられないみたいに、丸く目を見開いて、呆気に取られていた。
その隙をついて、自分に被せられていた東堂のタオルを、顔面に投げつけて、出口へ向かう。

後方で、餓えたような凶暴な呻りが聞こえたのは、気のせいだと巻島は思うことにした。
東堂の思い詰めたような目や、獰猛な手の動き、肌に流れる水滴に、自分も見惚れかけていたなんて、絶対に悟られるわけにはいかない。

ぽたり、と髪先から落ちた雫が首筋を伝う。
東堂に追いつかれぬよう、急いで着替え外へと迎えば、壁一枚経ただけだというのに、信じられないぐらい気持ちの良い風と青空が待っている。

吹く風が、濡れた髪の毛を乾かし、心地良い。
五分もすれば、我を取り戻した東堂が、しょんぼりと出てくるだろう。

少々くすぐったいが、そんな東堂を待っていてやれば、有頂天な様子が返ってくるに違いない。
そんなささいなやり取りを、想像しながら待つ自分がおかしくて、巻島は髪をかきあげ、ちいさく笑った。