神に愛された人は、孤独だ。 どんな文献を読んでも、歴史から鑑みても、神に愛されていると称される、すべてに抜きん出た人物は、その才能と引き換えに、何かを奪われている。 『山神』と称された東堂尽八もその一人だった。 東堂は、彼――巻島裕介に出会うまで、孤独を感じたことはなかったという。だがそれは、痛みを知らぬということで、問題ではない。 むしろ東堂にとって、気持ちよくわが道を突き進むのに、痛みなどなくて良かったというのが正直なところだった。 東堂にとってのクライムは、自分の適性にあった、かつ自分の力を他人に認めさせるための手段の一つだった。 なので、山頂へと一番で登りつめる結果以外に、興味はなかった。 傾斜がある山では、その角度を楽しみ、緩やかに長い坂では、周囲の青空を楽しみ、また自分の応援へ来る人たちへ、謝辞をふりまくという、 表彰台への一種の過程だ。 場合によっては、一位になれないこともある。 そんな時は己の努力不足を鑑み、次の試合への参考材料としても、それだけだ。 前にいた奴がどんな人間だったかなんてさほど興味はないし、ましてや後ろにいた者などまるで関心がない。 自分を称えてくれるものは、好きだ。ともに走れる仲間たちも、一緒に居て楽しめる。 東堂にとって他者の存在は、気に入っているものかそれ以外の二者択一で、世界は完結をしていた。 「楽しいな 巻ちゃん!」 こんな台詞を、競い合いながら叫べるなんて、夢のようだ。 近場でのレースがなくて、どこかいい場所はないかと電話をしてきた東堂に、巻島は次の休日に登る予定だった山を告げた。 都合がいいからと、一緒に来れば、道のりは自然と山頂争いになってしまう。 東堂にとって、あの出会いから世界が一変した。 それまではただの山道にしか過ぎなかった坂が、空と自然と風をともなった心地よい最高の空間になる。 濡れた道路の上を、嫌いじゃないと口端を上げて走る巻島の姿も、極上のごちそうだ。 捕らえて、捉まえて、自分を充たすための、この上もない「何か」は、巻島しかいない。 クネクネとした、奇妙極まりない不思議なダンシングで、自分の前を走るやつに衝撃を受け、当初は嫌った。 そこで初めて生まれたのが、『気に入っている』ではない、『それ以外』でもない『巻島裕介』という存在だ。 いないと、何かがぽっかりと空いたような心持になってしまう相手がいるなんて、考えたこともなかった。 ――オレは巻ちゃんと居ることで、初めて孤独を知った。そして同時に、世界は色あざやかなのだと教えられた。 他者がありえないという、バランス崩れた蜘蛛の走りを誰よりも間近で、誰よりも長く見ていられるという優越感。 楽しくない、訳がない。 巻ちゃんがいると、世界が変わる。巻ちゃんが横にいれば、全てに充たされる。 だから、東堂は告げた。 「巻ちゃんの走りが大好きだ オレにとって、その走りを持った巻ちゃんは、世界の全てにも等しい」と。 車の少ない山頂で、今は世界に自分たちしかいない気分になる。 ガードレール向こうの、木陰の奥の平地は、二人で見つけた特別な場所で、車でここを通過する者たちには、存在すら気が付かれない休憩場所だ。 汗ばんだ体に、吹く風が気持ちよくて、レジャーシートの上で隣で微笑む巻島が綺麗で、東堂は幸せだった。 だが東堂の言葉を聞いた巻島は、しばし目を見開いて何度かまばたきをした。 どうしてだろう、ものすごく苦い何かを飲み込んだみたいな、泣きそうな目をしながら、無理やり笑う。 「…東堂…オレはよォ…お前とはもう、走らねぇ」 「は!?何を言ってるんだ、巻ちゃん!!」 「お前はさ…、山神の称号にふさわしい完璧な登りをするっショ アシストに徹したらそれにもなれるし、ヒルクライムなら自分で1位も狙える」 これから東堂は、プロの世界に行くのだろうと巻島は崖下の遠く遥かを見下ろし、断言した。 ――そこにオレはいない。 巻島の小さな呟きは、風にまぎれて消えた。 お前はきっとオレより早い誰かを見つけて、楽しそうに報告をくれるだろう。電話向こうの、オレの気持ちに気づかずに。 それ位なら、永遠のライバルと呼んでもらえる内に、東堂と走るのをやめてしまおう。 今日はその為に、一緒に登った。その最後の最後で、思いも寄らなかった言葉を貰い、体が震え泣きそうになる。 縮こまって、無言で固まっていたい気持ちを抑え、巻島は首を振る。 「だから何だというんだ!仮にオレがプロになっても、巻ちゃんと走ろうと思えばいつだって走れる!それに同じレースを申し込めば、 たとえ巻ちゃんがどう思おうと、オレとお前の二人きりだ!」 懸命に自分を止めようとする、東堂の姿にひそかな悦びを感じてしまうのだから、自分はもうどうしようもない。 泣きそうになるのを堪えて、巻島は最後の一言を告げた。 「…じゃあオレはもう…ロードに乗らねェ」 信じられないように、双眸を瞠った東堂は巻島をただ、ねめつける。 そして唇を何度か開きかけては閉じ、それでも巻島から目線を外さない。 嘘だ、ともダメだとも言わず、まばたきも忘れて、巻島を凝視するだけだ。 いい捨てた巻島は、もう楽な気持ちになっていた。これで、東堂がいつ自分に興味をなくすだろうと、不安な毎日を過ごさなくて済むのだから。 だけど、このやり方は卑怯だった。懸命に自分を追ってくれた友人を、切り捨てるようなやり方で投げてしまった。 もう最後だから、この正直な気持ちは伝えておこうと、向き直った巻島の腕を、東堂が強く引いた。 ガクンとバランスを崩し倒れこむと、東堂もしゃがみ、今度は巻島の足首を強靭な力で縛める。 「東堂…!何するっショ!!」 身をよじり抗議をしても、東堂は無言でひたすらに、巻島を見つめていた。 自分が悪かったとはいえ、いきなり暴力沙汰はひどいと睨んでも、東堂は無表情だ。 笑わない、喋らない東堂に、ふつふつと恐怖が湧いてくる。 乾いた喉に、無理やり空気を押し込み、唇を開く。 「とうど……」 「許さない」 獰猛な色を隠さぬ東堂が、ぐいと巻島の足首を持ち上げる。 バランスを崩し、上半身が地についても、見下ろす東堂の様子に代わりはなかった。 「許さんよ巻ちゃん オレから巻ちゃんの走りを奪うものは、巻ちゃんでも許さない」 ――何を筋違いな、不条理だ。 そう返すより「痛っ」と反射的に出たのは、本能から来た言葉だったからだろう。 普段の東堂であれば、巻島の声を聴いた瞬間、慌てて手を離し謝罪をしている。 だが、今の東堂は。 巻島の痛みを訴えに、うすく笑った。 「巻ちゃんは走るのをやめて、オレから逃れたいのか?」 「…ちがっ……」 「じゃあもうこの脚はいらんな オレが貰ってやろう」 巻島の細い足首に、屈強な指先が更に負担をかける。みしり、と骨がきしむ音が聞こえた気がした。 「いたっ 痛いっショ東堂!お前何考えて…やっ!」 「だって巻ちゃんが悪い オレと走らないなんて言うから」 「……じゃあお前はどうなんだよ!!」 無理に吐き出した叫びのせいで、心臓が高く脈打つ。 みじめに、縋り付くなんてガラじゃなくて、最後くらい素敵な想い出で終わらせようとしていた巻島は、こみ上げる涙を飲み下し、呻くように返した。 「お前がどんどん早くなって、オレが一緒に走れなくなったら、お前にとってオレはもう用済みの存在になるっショ!?そんな時になって、 泣き叫ぶ無様なマネしたくねェんだよ!…今なら、思い出で終わらせられる…」 意に反し、こぼれた涙を見られたくなくて、顔の前で交差した腕で目元を隠す。 情けなくて、こみあげてくる嗚咽を抑える代わりに、掴まれている足を大きく振れば、意に反し容易に拘束は緩められた。 「……巻ちゃん、オレは巻ちゃんの走りが好きだと告げた筈だが…?」 「だ、だから…、オレのスピードが、お前に追いつけなくなった、ら……」 「もう一度言うぞ巻ちゃん オレは巻ちゃんのその美しい走り方に惚れた 巻ちゃんがスピードを出せなくなったのなら、オレがそれに合わせればいい」 「………?…」 フゥと大きく吐息した東堂は、緩くではあるが掴んでいた巻島の足首を持ち上げ、軽く口接けた。 巻島の肌に、唇を落としながら、東堂は子供に言い聞かせるようにゆっくりと続けた。 「オレの伝え方が拙かったようだ オレが好きなのは巻ちゃんと競うことじゃない、一緒に走れることだ…いや、巻ちゃんが走れなくても、 横にいてさえくれれば、オレは世界一幸せな男になれる」 しばし呆然と、東堂の落とす声を聞いていた巻島は、一瞬の間をおいてみごとに頬を紅潮させた。 「え、…あ……とう…ど…」 「訂正しよう巻ちゃん 走りを含めたお前が好きだ だけど巻ちゃんが走れなくなっても…この気持ちは変わらない」 神に愛された人間は、特異な人間を愛した。 常人より長くしなやかな肢体を持ち、蜘蛛と呼ばれる山の化身の存在。 唯一無二で、そのたった一人の存在を捕獲するべく、東堂は己のネックレスを外し、その足首に何重にも巻きつけ、アンクレットの代わりに鎖を結ぶ。 「やっとオレのものだ」と優しく口端を上げた東堂は、隔離されたようなこの空間で、もう虚無感はどこにもないと、山へと感謝を囁いた。 |