箱学ジンクス【東巻】




総北自転車競技部 部室
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授業を終えた巻島が、見慣れた部室の扉を開けると、見慣れぬ黒髪が、上半身土下座体勢をとっていた。
正確にはパイプ椅子に座って、デコを机にくっつけ平伏する男の姿で、しかもその制服は自校のものではない。

「偉大ナル 巻島サマヲ男トミコンデオ願イニマイリマシタァッ」

「その声は荒北…?っていうか何ショその棒読み、っつーか訳わかんねぇ台詞…」
「オレもお邪魔してるぜ」
バキュンといつものポーズを決め、ウィンクをする新開は田所と部屋の隅で、二人してパンをむさぼっていた。
「なんか部室来たら、こいつらがいたからとりあえず通しといた」
むっしゃむしゃと、カツサンドを頬張る田所は、荒北の行動にも動じていない。

「東堂は来て…ねーみたいだな」
キョロキョロと辺りを見回すまでも無く、仮にその場にいたら巻島の姿を確認した途端に、どこからでも、駆けつけていただろう。
「…あー、お願いっつーのは、その東堂も絡んでるんだワ」

とにかく顔を上げろと促すと、荒北はあらためてパイプ椅子に乱暴に座りなおした。
別にやさぐれている訳ではなく、これがいつもの態度だとすでにわかるようにはなったので、うろたえはしないが、それでも先ほどの言葉の真意が、
あの一言でつかめるほど、親しくは無い。

「えっとーまずお願いっつーのは 巻チャンにウチの文化祭来て欲しいんだけど」
「へ…?」
何を言われるかと覚悟を決めていたのに、存外ずいぶんと軽いお願いだ。拍子抜けした間の抜けた相槌に続き、
「別にそれぐらい…かまわ」
ないと続けようとした、巻島の言葉が終わる前に、荒北の声は重なった。

「女装で」
「………助走?余興のレースアシストでも必要か」
「いやいや『女装』」
「…除草…草むしりをしながら文化祭……」
「ハイ、却下ー!女に装うと書いて女装!!じょ・そ・う!!」
「却下じゃねーよ!何で俺が女の格好して箱学訪れなくちゃならねーんだよっ!東堂だけじゃなくて、荒北おめーまでどっかネジ外れたのかよっ」
「ヒュゥ 裕介君それは尽八がおめさんに女装を迫っているってことかい?」
「えっあっ 違っ…!そうじゃなくって… 今のはっ!アイツなら言いかねないって意味ショッ!」

ワタワタと頬を紅潮させ、手を上下に振る巻島に、とにかく理由をきけと、荒北が巻島の肩をたたいた。
「この前、うちの地元で大会あっただろ 覚えてるか?」
「ああ、箱根ヒルクライムっショ」
僅差で東堂に負けてしまい、その後はじめてレース後に二人で食事をしたというのは、黙っておく。

「裕介君と初めてご飯に行った記念日だとかで、尽八のカレンダーには赤丸がついてるよ」
「あ、そっか巻チャンに確認するまでもなかったわ」
…黙っておいたけれど、何の意味もなかった。

「で、そん時にたまたま ウチの学校の女がゴール近く通りがかって東堂に一目ぼれしたとか言ってさー」
「よくある事っショ」
表彰式のその場にも、東堂の名前入りの団扇やら応援タペストリーやら、いろんなグッズを手に持った女の子たちが、優勝おめでとうと、声援を上げていたのを思い出す。
「いやいやソイツが性質悪くてよ 東堂ファンクラブの女達ともガチ対決してんだワ」

荒北が語るところによると、その女というのはかなりの美人らしい。
しかもその美貌を自覚していて、周囲を振り回しながらも、一部男性からは支持をうけているというのがやっかいだ。
基本、自分をチヤホヤしてくる男にしか興味を持たないので、自転車競技部に絡んでくることはなかったのだが、東堂の活躍が全国規模と聞き、
スペックも高いという理由で近寄ってきたのだという。
これみよがしにタオルを差し出してきたり、ベタベタと東堂にまとわり付くその様子に、長年のファンとしては「何この女」という思いが拭えなかったのだろう。

日増しにファンクラブとの対立はエスカレートし、しかもその女が「群れたブスってこわぁい」などと煽るので、さすがの東堂もうんざりしていると、新開が続けた。

「…それが理由で荒北がここまで来るショ?」
確かに鬱陶しそうだが、荒北ならばテメーで何とかしろと、放置していそうな問題に、巻島が首をかしげる。
「いや、その子が『なんでぇ 東堂くんが部長じゃないのぉ? あんな地味でつまんなそうな男よりぃ、絶対東堂君のほうがカッコいいのにー この前だって
気持ち悪い走りをしてる二位の男なんて 全然目じゃないゴールだったしぃ』と言ったんだ」

新開のフォローで、なるほど、納得だ。
その一言で東堂も静かに切れただろうし、目の前の野獣はもっとキレたのだろう。

「『黙れこのブス!』って叫んだの 俺は痛快だったけどね」
笑う新開とひきかえに、荒北の表情は苦々しい。

「…女はズリィよなあ テメーは好き勝手言っておきながら『ひどぉい!』とか泣けばセンコーは無条件で向こうにつくしよ」
その場を収めるため、東堂は自分が状況説明をすると進路指導室に赴いたのだという。
東堂ファンクラブたちも「東堂君も、荒北君も悪くないって私たちが証明する!」と付いていったので、それ以上の心配はないようだ。

「…そこまでは解ったッショ で、何で俺の女装の話になるんだよ」
「んでェ 全員がついてくとあまりに人数が多いから 残るのもいたんだよ そん中の一人が わざとらしく泣く女の方に向かって
『だいたい東堂君には巻ちゃんさんって彼女がいるんだからっ!あんたなんか出る幕ないのよ!!』って叫んだんだよねェ」
「ついでに後輩たちも、寿一への暴言に腹たててたらしくてさ『そうだそうだっ!東堂さんは巻ちゃんさんにベタ惚れなんだからなっ!』って続けてしまってね」
袋の中のパンを、一通り食べ終わったらしい新開は、懐からパワーバーを出して、田所へと進めていた。

田所はともかく、新開はどこにあの量が入っているのだろうと、現実逃避をした巻島は、ぼんやりとそちらを眺めている。

「だから、女装してウチ来て」
「なんでだよっ!!」
「その女、ファンクラブの奴らも巻チャンの実物見たこと無いって知ったら『レースの応援にも来ないし 文化祭にも来ないようなら東堂君に本気じゃないのよっ!
私が目を覚まさせてあげるぅっ 私のほうが絶対美人だしとーどーくんの事スキだもんっ!』とか今度言い出したんだよねェ」
「………タフだな」
ぼそりと呟いた田所に、げんなりとした様子で荒北も同意した。


大事な練習時間を、これ以上その女に振り回されたくないと、東堂もニセ彼女を文化祭に呼ぶという案に同意をしたらしい。
そんなことをすれば、山神ファンが減るのではないかという問いに、すでに東堂の周囲は『幸せそうな東堂様を応援するのも、ファンの努め』の域に達しているとの返答だった。
つまり、巻ちゃんの存在はすでにファンクラブ黙認なのだと、新開は答えた。

「だったら俺じゃなくて もっと可愛い子を代理彼女とかに仕立てればいいっショ そのほうがよほど説得力あるし」
「俺らもそう思ったんだけどさぁ …駄目なんだよねェ 東堂の反応がまるで違くて」
部員の妹を、仮想彼女に仕立てるシミュレーションの結果、東堂はどうやっても礼儀正しい彼氏モード以上にはならなかったのだと、荒北は続けた。

「アイツの巻チャンモードは 電話やメールのやりとりだけもあきらかに他人と違ってるから バレバレになっちゃう訳」
巻島のことをよく知らない、新入部員ですら、東堂と一緒にいる人が『巻ちゃん』でないと察せられるレベルなのだと、首を振る。
「……俺モードって……聞きたくねぇけど……どんな…?」

チラと新開と目を見交わした荒北が、手を上げた。

「1番 荒北靖友 巻チャンのメール待ちの東堂のマネしまーす
『あぁ どうしたんだろう巻ちゃんからの返信が3時間たっても来ないのだよ いや巻ちゃんにだって都合はあるからな、今までだって半日たってから返信が来たこともあるんだし解ってる。
だが巻ちゃんはもう部活が終わっている時間の筈だ。ハッ…まさか…!きっと巻ちゃんは今病気で倒れてしまっているに違いない!いや…待てよそれとも俺への返信で満ち溢れる心を
伝えようと、頑張っているのか…?何で可愛いんだ巻ちゃん!ここがライバルたるこの俺が巻ちゃんの元にかけつけて…!』
…だいたいここらで、俺が東堂殴ってとめてまース」

「2番 新開隼人 裕介君が電話に出ないときの尽八の真似
『巻ちゃん、巻ちゃん…どうしたのだ 今日はこれで25回も電話をしているのに何故出ないんだ…いや待て10回目からは誰かと電話中だった。ああ巻ちゃん!この俺では無い誰と話を
しているんだ。計算をすると1時間以上も話していることになるのではないか。きっと巻ちゃんは優しいから自分から切れないに違いない 何を、誰と話してるんだ巻ちゃん!この東堂以外と、
あの巻ちゃんがそんなに長時間話せるのか…?どんな相手なのだ…いや違う 巻ちゃんはきっと誰かに脅迫されて…心配だ!大丈夫か巻ちゃん!!
やはり俺は巻ちゃんの家に行かなくてはっ!』
…って大抵この辺りで、靖友が尽八を蹴飛ばしてるな」

「…怖ェよ箱学」
パワーバーを咥えながら、宇宙人を見る目になっている田所の反応は、正しい。
「ちょっと待て コエェのは東堂だろ 俺らまで一緒にスンナ」
荒北のこの反論も、正しいものといえるだろう。

「…お前らの同期は俺のこと知ってるッショ 女装とかありえねぇだろ」
「あ、大丈夫 今回は福チャンを除く部員一丸で協力体制だから」
「俺の身長とか、髪の色とか!東堂ファンなら見てるだろ!巻ちゃん=男だって即バレするッショ!」
「そっちも平気 後輩の兄ちゃんに美容師がいてウィッグとメイクもばっちり手配ずみィ」
「ちなみに裕介君こと東堂の彼女の巻ちゃんは モデルやってるから背が高くて、細いってことになってるぜ」
「何サラッとハードル上げてんだよっ!!……箱学……アホばかりショ……」

「まあ行ってやれば?お前も東堂との勝負楽しんでるみたいだし レースで変な邪魔は無い方がいいだろ」
田所の手には、なぜか数枚の焼肉優待ご招待券なるものが、ヒラヒラと掴まされている。
期限が近いし、箱根からは遠いと新開から手渡されてものだ。
「田所っちの…裏切り者……」
「箱学に貸し一つ売ったと思ってりゃいいじゃねえか」
ガッハッッハと豪快に笑う田所は、悪意でなく単純にそう思っているのだろう。

かくして、『東堂の彼女 巻ちゃんが箱学文化祭に来ちゃうよ』作戦は実施される事となったのである。