猫語レッスン  第四章


「ふ、普通そのカッコで木に登ろうとかって考えないっスよ。あー、もう、ホント飽きないっスね、アンタって」
 思った以上に楽しいと、腹を抱えて笑うハボックをロイは思い切り睨みつける。その怒りにきらきらと輝く黒い瞳を見上げて、
漸く笑いを納めたハボックが言った。
「ほら、手貸してあげますから下りてください」
 ハボックはそう言ってロイに向かって手を伸ばす。だが、ロイはプイッと顔を背けると、身動きの取りにくい枝の上でわざわざ
ハボックに背を向けた。
「ロイってば」
「ニャーーーッッ!!(うるさいッッ!!)」
 肩越しに振り向いて叫んだロイは再びそっぽを向いてしまう。ハボックはやれやれとため息をついて言った。
「仕方ないっスね。じゃあオレはちょっと家ん中のことやってきちまいますからその間に機嫌なおしといて下さいね」
 そう言うとハボックはロイを枝の上に残して家の中に戻ってしまう。肩越しにそれを見送ったロイはフンと鼻を鳴らした。
「なんだ……根性のない奴」
 うるさいと言ったのは自分だし、おもちゃにされない為にもハボックと距離を置いた方が良さそうだと思ったのも自分だ。だが、
ああも簡単に引き下がられてしまうと面白くないのも事実だった。
「馬鹿ハボ…」
 ぼそりとハボックを罵ったロイは、とりあえず下に下りようとして枝を掴み直す。だが、枝から離した片足を下に伸ばそうとして、
自分の足先が地面からずっと高い位置にあることに気づいたロイは愕然とした。
「ど、どうやって登ったかな………」
 登るのは凄く簡単だった気がする。だが、下りるのはどうだろう。確か幹を支えに使った筈と枝の上から幹に向かって手を伸ばしたが、
幹に触れはしたものの太いそれをどうやって支えに使ったらいいものか、困ってしまった。
「くそう、この猫手が本物だったら使いようもあったのに……」
 鋭い爪でも出てくるのであれば爪をたてるなりできるだろうが、生憎この猫手に装備されているのはプニプニの肉球だけだ。
「どうせ凝るなら肉球なんぞじゃなく爪に凝れっていうんだっ、馬鹿ハボッ!」
 ロイはハボックを罵りながら下ろした片足を枝の上に引き上げる。体勢を整えて下りる方法を考えようとしたロイだったが、上げようと
した足を枝に引っかけてしまいバランスを崩して前のめりに倒れかけた。
「ウワッ!!」
 慌てて枝に掴まった拍子に枝に載せていたもう一方の足を滑らせてしまう。気がつけばロイは両手両足を使って枝にぶら下がって
いる状態だった。
「くっ、くそっ!」
 なんとか枝の上に戻ろうとするが腕力だけで体を引き上げるのは至難の技だ。それでも必死によじ登ろうともがき続けるうち、
いい加減体力を消耗してしまったロイの手足は枝にしがみつく力を徐々に失い、ロイの身体は枝から離れ始めていた。
「うーっ、どうしたら……ッ?!」
 足を離して腕を伸ばしたら地面まではそう離れてはいないのだろうか。いちかばちかそうやって足から飛び降りてみようかと思った時。
「わっ?!」
 ずるんと腕が滑って、ロイは足の力だけで枝に逆さ吊りになってしまった。
「う……わ……」
 足からなら多少の高さがあっても下りられないことはないが、頭からではそうはいかない。実際宙づりになった頭から地面までは
結構な高さがあり、このまま落ちたら首の骨は折らないまでもただでは済まないことは確かだった。
「く……ッ」
 ロイは腹筋の力で何とか上半身を引き上げて枝に掴まろうとする。だが、そんな簡単にいく筈もなく、ロイはだんだん頭に血が上ってきてしまった。
「は……くそ………」
 もう枝に向かって手を伸ばす気力もない。
「ハボ……」
 ボウッと霞んできた頭の片隅に阿呆な罰ゲームを考えた男の顔が浮かんだ途端、ロイはキッと枝を睨み上げると腹筋の反動を使って
思い切り枝に手を伸ばした。
「………と、届いた……」
 何とか枝にしがみついてロイはホッと息を吐く。だが、次の瞬間今まで必死に枝に絡めていた足から力が抜けて、ズルリと枝から外れてしまった。
「うわ…っ」
 今度は腕の力だけで枝にしがみついて、ロイは目を見開く。足からなら落ちても大した怪我にもなるまいと、ロイは意を決して枝から腕を離した。
「………ッッ!!」
 目をぎゅっと瞑って咄嗟に猫のように身を丸めたロイは、堅い地面の感触の代わりに暖かく力強い腕を感じる。恐る恐る目を開ければ呆れたような
空色の瞳と目があった。
「なにやってるんスか、アンタ」
 枝から落ちてきたロイを受け止めてハボックが言う。ロイの足を地面に下ろしてやると言った。
「下りれないならニャーニャー鳴けばいいっしょ?落ちて怪我したらどうするつもりだったんスか」
 そんな事を言うハボックにロイは猫手を繰り出す。不意をつかれて肉球をもろに食らって仰け反るハボックを置いて、ロイはプンプンと頭から湯気を
出しながら家の中へと戻っていった。

「むっ、ムカつくッ!!」
 ロイは唸るようにそう言いながらリビングに戻ってくる。テーブルの上に置いてあるねこじゃらしを目にするとそれを掴んで腹立ち紛れにバシバシと
テーブルを叩いた。
「ニャッ、ニャッ、ニャーーーーッッ!!」
 バシバシ叩くうち、思わず口から雄叫びがついて出る。ひとしきりテーブルを叩いてスッとしたロイはソファーに上がるとクッションに頭を載せ、
手足を丸めて小さくなった。
(くそう……腕と脚が痛い………)
 必死にしがみついていた時は気づかなかったが、太くてごつごつした枝のせいで手足のあちこちに痣が出来ているようだ。あまりの情けなさに
涙が出そうになった時、大きな手がくしゃりと髪を撫でた。
「ロイ…?」
 心配するようなハボックの声に、ロイは手足を引き寄せて更に小さく丸まる。ロイの隣に腰を下ろしたハボックは一つため息をつくと言った。
「言い方が悪かったっス。ホントは怖かったんでしょ?呼んでくれたらすぐ助けに行ったのに」
 ハボックはそう言ってロイの髪を撫でる。その大きな暖かい手が優しく触れるのを感じて、ロイは顔をくしゃくしゃと歪めた。
「ふにゃーん……」
 頑なに丸まったまま、それでもそんな鳴き声を漏らすロイをハボックは膝の上に引き寄せる。大人しく引き寄せられるままにハボックの膝の上
に乗るとロイはホッと息を吐いた。
「にゃ……」
 疲れた、とハボックの肩に顎を載せるとだらしなく手足の力を抜く。大きな胸に気持ちよく収まって、ロイはしどけなく身体を伸ばした。
目を閉じてハボックの鼓動に耳を傾ければ自然と眠たくなってくる。必死に枝にしがみついていた疲れも手伝ってうとうととし始めたロイは、
突然ゾロリと双丘を撫でられて飛び上がった。
「ニャッ?!」
 飛び上がった勢いで離れようとした身体をハボックがグイと引き戻す。驚いてハボックを見上げれば、空色の瞳が困ったようにロイを見つめていた。
「アンタね、その格好でそんな風にすり寄ってきたら…」
 煽られちまうんスけど、と呟いてハボックはロイの耳元に口づける。
「んニャッ!!」
 チクリと耳元に走った痛みにロイはじたばたと暴れた。
「もう……いけない仔猫ちゃんっスね、飼い主を挑発するなんて」
「ニャニャニャーーーーッッ!!(挑発してないーーーいッッ!!)」
「おわっ」
 ロイはハボックの耳元に大声で叫ぶ。キーンと響いた猫声にハボックがひるんだ隙に、ロイはハボックの腕の中から逃げ出そうとした。
だが、腰のベルトから伸びる尻尾を掴んでハボックはロイの身体を引き戻す。黒い天鵞絨に包まれた細い身体をソファーに組み敷くとにっこりと笑った。
「かわいい仔猫ちゃん、今日はオレの言うこと聞くって約束っスよね。煽った分、たっぷりオレの相手して下さい」
「ニャーーーッ!!(嫌だーーーッ!!)」
 爽やかに笑ってとんでもない事を言う男を見上げて、ロイは悲鳴を上げたのだった。