酔えぬ間違え


「ねェ大佐 気付いてないでしょうから教えてあげますよ
…アンタは酔っ払うと 俺を違う名前で呼ぶんですよ」

気の知れた部下の一人を誘っての、我が家での飲み合いは普段
ならばどちらかが潰れるまで、実のある互いの見解や
くだらない会話が途切れることがないのだが、その日は
違っていた。

何をきっかけにしたのかは不明だが、何本目かのワインを
空けた頃からハボックは無口になり、その眼差しはどこか暗い。

飄々とした風体でいながら、気遣いのあるこの男は私が
人付き合いに疎いのを察し、静かになるとそれとなく会話を
紡いでくれることが多いのに、今日はそれもない。

なんとなくいたたまれなくなって、少し水を飲んでくると
言い捨てキッチンに向かう。
洗い棚の上にあるグラスを取ろうと、手を伸ばすより先に背中に
熱を感じ、私より一回り太い手首がグラスを掴んでいた。

「これでいいっスか」
「ああ…すまんな」
背後にピタリと立ったハボックは、どういうつもりなのか離れず
私の肩下辺りから腕を前に廻して蛇口を捻り、水を注ぐ。

なんだか抱き付かれているようで落ち着かず、肩を揺すってハボック
と距離を置かせようとしてみるが、「どうぞ」と私の口元にグラスを
運ぶハボックは、かえって意地にでもなったかのように体を更に密着
させて来て、どうにも緊張する。

「あのな…いくらお前が面倒見がいいとはいえ…ここまでせんでも
大丈夫だぞ」
「酔っ払いを一人で抛っとくと何しでかすかわかりませんから」
私の足元が不確かだったとかで、追いかけてきたのだろうハボックに
そう告げると、低い声が耳元まで降りてきて反論した。
その囁きはどこか笑いを含んでいるようなのに、日頃感じている暖かみ
がなくて私を混乱させる。

「酔っ払ってない…から…離せ」
「酔ってます」
「酔ってないと言っている!」

心配だって度が過ぎれば鬱陶しい。
少しキツめに言い返しても、背中に密着した熱はそのままで、沈黙だけ
が空間を支配する重い時が続く。

「じゃあ なんで俺をヒューズと呼ぶんスか」

どうしても耐えられない気まずさから抜け出そうと、身じろぎをしよう
とした瞬間、抑揚のない声が問い掛けた。
小さく呑んだ息が聞えてしまっただろうか。

――そんなつもりはなかったと
うっかりだったと言うのならば、すぐに訂正できていた筈だ。
わざとじゃないと告げても、それは言い訳にもならない。

「ほら、自分を酔っ払ってると認めるでしょう大佐?…二日酔い防止の
為にも もっと水飲んどいたほうがいいっスね もう喋れなくもなってる
みたいだし」
グラスがもう押し付けられ、傾けられた液体を咄嗟に飲み干せず
唇脇から水が溢れ伝う。
「ぐっ…ケホッ」
「ほら零してるっスよ」

鍛えられた太い指の背が、口脇から顎にかけてをゆっくりと拭う。
「大佐…俺の名前は?」
グラスを洗い場に置いたハボックは、両腕を私の肩の上に置いて廻し
拘束するように抱きついてきた。
子供を宥め透かすような「言ってください」と促す優しい声は嘆願の形を
取った命令だ。

「ハボック……」
「もう一度」
「ハボック… ジャン… ジャン・ハボックだ!」
「そうっスよ ちゃんと言えますね…もう二度と俺をヒューズと呼ばんで
下さい 俺はあの人じゃない」

解っていると返すのは簡単だった。
だが、あの人じゃないと告げた声音はどこまでもハボックに馴染まぬ昏さを
滲ませていて、その腕を振りほどかせなかった。
「あ……ハボック……その…」
「謝らんで下さいよ 今最期の理性と闘ってるんですアンタがこの場を逃げ
たいという理由だけで謝罪なんてしてきたら…ちょっと俺マジでヤバいんで」

肩口に下りてきた金髪は、私の頬をくすぐりその場で停止している。
わざとではないが、こんなに身動き取れなくなるほどハボックの心を傷つけ
てしまったかと申し訳なく、ほんの少しだけ自由になる肘から下を動かし
ハボックの頭を撫でた。

「ヒューズとお前を混同しているつもりはなかったのだが……数少ない心を
許せる相手として 間違えることもあったかもしれない悪かったな」
「うぅ…もう……ずるいっスよ!」
「ずるい …私が?」
「だってそんな風に言われたら 俺も腹を立ち続けていられなくなるじゃない
スか… しかも…絶対アンタ悪いと思ってるポイント間違えてる……」

途端へにゃりと脱力したハボックは、ずるい卑怯だ俺の馬鹿馬鹿なんで
こんな鈍いのが良いんだ 世間にはもっと素直ないい娘がいっぱい居るって
いうのにと謎の言葉を残し、両掌で顔を覆ってしゃがんでしまった。

よく分からないが…これはきっと、ハボックも酒が廻って酔っ払ってしまった
のだと思っておくことにしよう、うん。

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まだヒューズ存命中のお話です これがヒューズ亡き後だったらハボックはもっと暴走しちゃって
いたかと(本当はムカついたハボが台所でロイを剥いちゃう話の予定でしたが、気付いたら
ロイが天然でかわしてしまうお話になってしまってました)
ちなみにロイは「あーこれだけ付き合ってるのに名前を呼び間違え
られてハボックは怒ってるんだなー」としか思っておらずハボの「ヤバい」の意味をまったくわかって
おりません