NaCl


首根っこを捉まえて、ぶら下げた状態で運ばれてきた上司は先ほどまで
の勢いはなく、大人しく落とされた席に座っている。

「ばか犬っ 人前で私をあんな運び方をするんじゃにゃい!上司の威厳と
いうものを損にゃうではないか」
「いやいや『書類やれ』『まだ時間があるにゃっ』なんて追いかけっこ
を廊下でやってる辺りで もうそんなもん吹っ飛んでますって」
呆れたような部下の声に、マスニャングは目を逸らし尻尾をぱたぱた
振って聞こえないフリをしていた。

 そこで話題を変えても良かったのだが、この様子ではまた逃亡しかね
ないとハボックは念を重ねる。
「上司の威厳にかけて、この後再び逃亡なんて真似しませんよね?」
「………」
「し・ま・せ・ん・よ・ね サー」
「おっお前 少尉のクセに生意気だっ!」
 悔しそうに頬を膨らませ、睨みつけるロイをにっこり大型犬の威圧感
を放ちつつ見下ろしているハボックの視界に、白い袋が目に入った。
ロイの机上に置かれているそれは、よく見れば白でなく透明で袋いっぱい
に細かな半透明な結晶が詰められているのだと解った。
貼られているラベルには 少し大きめのNaClの文字から始まり、その
下に一回り小さな書体でCa Mg…etcと様々な記号が記されている。

「大佐 何スかこれ?」
用途がわからぬハボックが指差し尋ねると、ロイは話題が逸れたとばかり
安易に機嫌が直った。

「それは 今度の実験に使ってみようと南方に出張したファルニャンに
頼んでおいたものだ」

「実験って…そんな薬品関係を机においとかんで下さいよ 俺なんて価値
分かんないからうっかり怖い事態を引き起こしたらどうするんスか」
理系物質や数式といった物になるべく関わりあいたくないハボックが、
及び腰になったのを見たロイは、イタズラを思いついた表情で小さく唇の
端を上げた。
「もう遅いぞ お前は昨晩これを摂取してしまっている」
「マジっスかヒデェ!俺を実験体にしたって事!?」
「叫ぶな 私も口にしているから一心同体だ」
「ど、毒じゃないっスよね」
「即効性はにゃい だが恐ろしいことにこれはじわじわと慢性の病を引き
起こす引き金になる上、微量ではあるが砒素やカドミウム、水銀や銅と
いった有害物質を含んでいる …だからといって今後摂取しないでいると
今度は体がその成分不足を訴え、血液濃度が狂い昏睡状態となって死亡
する者もでている…」
「解毒剤とかないんスか!?」
「にゃい」
「アンタも口にしたんでしょ!?落ち着いてる場合ですかっ何か方法考え
なきゃヤバいじゃじゃないっスかっ」
「まあ長生きのために行う方法がないでもない 強いて言うなら上司を
尊敬して煙草をやめることにゃっ!」

 幾分血の気を引いた顔のハボックに、ご満悦の表情のロイが告げると
同時、その会話を聞いていたブレダが耐え切れないとばかり盛大に噴き
出した。
「なんだよブレダ お前は大丈夫って顔してるけど…」
「いや 俺もそれ摂取したぜ?」

あっさりとそう返したブレダは、何故か無言で睨みつけているロイに
手を翳し、「はいはい、俺はいいませんから」と小さく答えていた。
「えっ…それじゃあ…」
「っていうか ファルニャンも中尉も口にしてるぞ」
「…っ!そんな落ち着いてる場合かっ 急いで何か対策考えねぇと!」
慌てるハボックと対照的に、泰全としたままのブレダは肩を竦めただけ
だった。
「まあ…大佐の言ってることは全部本当だけどな… とりあえずお前は
ファルニャンが帰ってきたらNaClが何か尋ねてみたらどうだ」

 折りよくドアノブを回す音がし、そこに立っていたのは巡回から戻って
きたファルニャンだった。
「ただいま 戻り…少尉何か?」
ハボックの様子が少しおかしいと気付いたファルニャンが促せば、当人は
懸命に、危険物を口にしてしまったらしいと訴える。
「あの…少尉落ち着いてください」
「落ち着けねえよっ!NaClって何なんだ俺も知ってるものか?」
「よくご存知ですよ NaClとは塩化ナトリウム…つまり塩です」
「しおッ!?……ってあの塩?」
「はい一般で食塩などと呼ばれておりますのと純粋な塩化ナトリウムは
少々異なりますが基本同じです」
「え、でも大佐が慢性の病気の引き金になるだとか有害物質が含まれて
るとか…」
「塩分過剰摂取は高血圧や腎臓病の原因と言われてますし 自然塩には
確かにごくごく微量ですが水銀なども含まれております もっとも手で
山盛り一杯の塩を食べても害にならない程度ですが」
「不足で昏睡状態になるってのは…?」
「よく炎天下の作業で倒れるものがいるでしょう あれは水分不足など
様々な原因がありますが 汗で塩分が排出されたのに供給がない場合など
も原因の一つです……で、少尉」
「……ん?」
「マスニャング大佐を探しに出られていたのでは?」
 ファルニャンの視線に従って、振り返ったハボックの目に映ったのは
誰も座っていない司令官の席。
「逃げたーーーーーっ!って!いつの間にっ!!」
「…お疲れ様です」

 再度の探索に走り出ていったハボックの背に、同情を込めた声援が送ら
れていたがおそらく当人には届いていないだろう。

なお、ワン・ハボックのささやかな報復としてその後しばらくの食事は
「体に有害なんですよね」と塩分の一切含まれていない料理が並べられ、
デザート代わりには「あ、でも摂取しないのも駄目なんスよね」と小皿に
てんこ盛りにされた塩が置かれるようになり、ロイが涙目で謝るまでそれ
は続いたらしい。

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にゃんぐに会いたいとR様に嬉しいお言葉頂いたので ラブラブとは程遠いですが書いてみた