自火



「臆病の自火責めらる…か」
 居間のソファに座る大佐が、膝上にある本をめくっていた指を止め
ぽつり呟いた言葉が、よく解らなくて俺は首を捻った。
幅広い分野への興味を持つ大佐が、本日手にしていたのは古諺辞典。
何らかの格言なりことわざなりなのだろうが、聞いたことがない。

「臆病者が…ジカにせめられる?」
 強い奴より臆病な奴は直接攻撃を受けやすいと言う意味だろうかと
自己解釈をしていると、俺の独り言が聞こえたらしい大佐が顔を上げ
違うと小さく笑った。
「臆病者が怯えなくてもいいことにまで勝手に怯え、自分で恐怖を
生み出し一人苦しむことの喩えだ ジカ…とは直接の直ではなく自ら
の火とかいて自火だ」
 手袋に覆われていることが多いからか、天性の日焼しないせいか
男にしては白く細い指が、空に書いてくれた文字の綴りでようやく
理解すれば、今度は何故あらためてそんな言葉を大佐が口にしたのか
の疑問が浮かぶ。

 何故の問い掛けはそのまま顔に出ていたのだろう、黙って見詰めて
いた俺を、大佐は見上げ「解りやす過ぎるぞ お前は」と苦笑した。

「えーっと…俺の考えてること分かったんスか?」
「お前の考えてることなど丸分かりだ …大した意味はないよ 単に
皮肉な言葉だと思っただけで」
「…皮肉?」
「普通 人が無意識に恐れるものとして例えられるのは闇や天災だ
危険であることには変わりないが 炎そのものを恐怖の対象にすると
いうことは少ないのだよ」
「…そういやそうっスね ホラーラジオドラマなんかでも大抵 恐怖
イコール暗闇…とかで 明りなんかは逆に安心の代名詞ですし」
「愚か者が『自分が想像するありもしない火』に怯える…のならば
揶揄できるだろうが 私の場合は洒落にならんなと思っただけだ」
 戦場に立つ大佐の、構える前に見せる指先の形。
手袋を嵌めていない指先を動かすと、摩擦音の変わりにパチリと乾い
た音が響いた。

「自火に怯える私は…やはり臆病者なのだろうな それでいて焔の
称号も力も捨てることもできんのだから 我ながら矛盾している」
「…俺は焔を自分だけが使いこなせる力だと傲慢に哂って あざとく
人を踏みにじる男が上役でなかったことに感謝をしてますし そうや
って人を超えた力を悩む大佐だから傍にいたい、護りたいと…好きに
なったんスよ」
 俺が返した言葉に、大佐は意表を突かれたといった顔で目を丸く
して、顔を上げた。
「…俺何か変なコト 言いましたか?」
「いや…私はお前が『若きエリートで 凛々しく先陣きって闘う男
らしい焔の錬金術師』に憧れていたのかと思っていたから意外だった
だけだ」
「えーっとー…ツッコみたい箇所が多々あるのですが そこはあえて
自粛して…ひとつだけ その場合俺は大佐を抱きたいじゃなく抱かれ
たいの感情になると思うんスけど」
「…そんなものなのか?」
「そんなものです」

 鈍いというよりどこかズレまくっている、俺の大事な人は話題が
変わったおかげでか、先ほどまで纏っていたどこか昏い微笑がもう消
えていて、残るのは探究心に溢れた表情。

「…ではもし…もしもの話だぞ 私がお前に迫ったらお前はどうする
つもりだった?」
「大佐が? 俺に?? 迫る???」
「つまり……先ほどの仮定的に 私が…上官的立場にふさわしい役柄
を望んで…」
「…とりあえずせっかくの機会ですから受け入れて…実施に至る前に
下克上を狙いますかね」
「何故だ 即断をしなかったのだから内心のどこかに少しは抱かれ
てもいい願望があったのだろう!大人しく受け入れたまえ」
「無理っスよ」
「…よかろう 無理かどうか試してみようではないか」
「いやいや 無理だから…っていうか試させません」

 口先で敵う自信がまったくなかった俺は、実力行使と手早く大佐の
唇を塞ぎ、喉奥から洩れる抗議の唸り声が消えるまで、丹念に内部を
まさぐり味わうことにする。
 息がかかる距離にある、漆黒の双眸はこういった事態では普段固く
閉じられているのだけれど、現在大佐は不本意極まりないといった
表情で、ひたすらに俺を睨みつけていた。

 すこしぶーたれたその顔は、俺にとって可愛いだけのもので、先程
までのどこか憂いを滲ませた表情よりは、こんな顔して俺を睨んでくれ
ていた方がずっといい。
それでもその眉間の皺を解きたくて、深く舌を絡ませれば唸り声はいつ
の間にか甘い吐息混じりになってくれ、俺を嬉しくさせてくれた。